『地中海』の刊行
概要
ドイツの捕虜収容所で書き上げた原稿が、戦後に本になった。王と戦争ではなく、山・海・気候という「ほとんど動かない時間」から歴史を書く方法が示される。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
フェルナン・ブローデルAD1902年8月24日–AD1985年11月27日 · 著者本文
フェルナン・ブローデルは、若いころ北アフリカのアルジェリアで高校の教師をしていた。1923年からのおよそ10年間で、地中海を北の岸からではなく南の岸から眺めることになった。はじめの研究計画は、スペイン王フェリペ2世の地中海政策を論じるという、外交史として普通のものだった。それを地中海そのものを主役にする構想へ変えるよう勧めたのが、のちの師リュシアン・フェーヴルだったとされる。
資料集めは、地中海の各地の文書館に及んだ。スペインのシマンカス、ヴェネツィア、ラグーザ(いまのドゥブロヴニク)。古い映画用のカメラで文書を撮影し、何千枚もの写真を持ち帰ったという話が伝わる。調べるほどに、主役は王ではなく、船の積荷の記録、穀物の値段、商人の手紙、遭難の報告の側にあると思えてきた。1930年代の後半にはブラジルのサンパウロ大学でも教えた。1937年、ブラジルからの帰りの船でフェーヴルと乗り合わせ、何週間もの船旅のあいだに親しくなったという。以後、フェーヴルは彼の後ろ盾になる。

1939年に戦争が始まると、彼は砲兵の将校として召集された。1940年、フランスが敗れ、ブローデルはドイツの捕虜になった。マインツの収容所、のちにリューベックの将校収容所で、戦争が終わるまで5年近くを過ごす。
そこで主著を書いた。手元に図書館も文書も無い。戦前に読み、書き写しておいたものの記憶だけを頼りにした。書き上げた分は学校用のノートに綴じ、パリのフェーヴルへ送り続けた。収容所の仲間に講義をすることもあったという。目の前の戦争という出来事から距離をとるために、ゆっくりとしか動かない時間について書いた、と彼はのちに振り返っている。

戦後、1947年に博士論文として審査され、1949年に本になった。題は『フェリペ2世時代の地中海と地中海世界』。千ページを超える大著だった。
三部の組み立てそのものが、主張になっている。第一部は、山、平野、海、島、気候、道。人の一生ではほとんど動かない時間を描く。山の民がなぜ平地へ下りるのか、冬の海がなぜ船を港に閉じ込めるのか。第二部は、経済、人口、国家、社会、文明。数十年の単位で上下する景気や物価の波を追う。第三部でようやく、王と戦争と外交が出てくる。著者は序文で、出来事を深い海の上に立つ泡にたとえた。
レパントの海戦は、この本では最後のほうの一場面になる。キリスト教徒の連合艦隊がオスマン帝国の艦隊を破った大海戦だが、ブローデルは、それで地中海の大きな流れが変わったわけではないと書いた。オスマン帝国は翌年には艦隊を建て直している。

事件を追うことが歴史だ、という前提を、この本は組み立て方で崩した。1929年にマルク・ブロックとフェーヴルが始めた雑誌『アナール』の名をとってアナール学派と呼ばれる流れがあり、この本はその代表作になった。ブロックは、ブローデルが収容所で書いていたころ、対独抵抗運動に加わって捕らえられ、1944年に銃殺されている。政治や戦争の出来事を並べるのではなく、経済や社会や人びとの心のあり方を、地理学や経済学や人類学の手法も借りて長い時間の幅で捉える。雑誌が掲げたその方針を、最も大きな規模で実行してみせたのが『地中海』だった。ブローデルは1958年の論文で、いちばん深い層の時間を「長期持続」と名づけている。
戦後のブローデルは、フェーヴルの後を継いで雑誌と研究機関を率い、フランスの歴史学の中心にいた。1966年には『地中海』を大きく書き改めた第二版を出す。その後は、15世紀から18世紀の世界の経済と暮らしを描く『物質文明・経済・資本主義』に取り組んだ。
批判もあった。三つの層がうまくつながっていない、人間の意思や偶然が消えてしまう、という指摘である。フェリペ2世という人物がほとんど見えない、という皮肉も言われた。それでも、海や山や気候を歴史の舞台装置ではなく登場人物として扱う書き方は、この本から広まった。日本では1990年代に全訳が出ている。詳しい中身は物語「『地中海』で読む歴史」で読める。