できごと

摂関政治の頂点

Height of the Fujiwara regency
AD1016年
重要度 3
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1016年の版図を描いています(21勢力)。

概要

藤原氏が天皇の外戚として権を握った。この頃『源氏物語』が書かれる。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

藤原道長AD966年–AD1028年 · 当人

本文

平安時代の貴族の家では、生まれた子は母の実家で育てられることが多かった。天皇の子も例外ではない。后の父、つまり天皇の外祖父は、幼い皇子を自分の屋敷で育て、皇子が天皇になれば、その後見人として政治を動かすことができた。藤原氏の北家は、この仕組みを数代かけて磨き上げた。9世紀の半ばには、藤原良房が幼い清和天皇の外祖父として、天皇に代わって政務をとる摂政の地位についた(藤原良房の摂政)。その養子の藤原基経は、成人した天皇を補佐する関白の役を始めた。10世紀の後半には、天皇が幼いうちは摂政、成人すれば関白が置かれることが当たり前になった。

その頂点に立ったのが、藤原道長である。道長は藤原兼家の五男で、本来なら摂関の地位に届く立場ではなかった。ところが995年、関白だった長兄の道隆と、その跡を継いだ次兄の道兼が、疫病の流行の中で相次いで亡くなった。残ったのは、道隆の子の伊周と、叔父の道長である。道長の姉で一条天皇の母の詮子が天皇に強く働きかけ、道長が政治の中心に立った。翌年、伊周は花山法皇に矢を射かけた事件などを理由に都を追われ、争いは決着した。

藤原道長の肖像
藤原道長の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

道長は、自分の娘を次々と天皇の后にした。長女の彰子を一条天皇の中宮とし、次女の妍子を三条天皇の中宮とした。彰子が産んだ皇子が、1016年に幼くして後一条天皇として即位すると、道長はその外祖父として摂政になった。翌年には摂政の地位を息子の頼通に譲ったが、実権は握り続けた。1018年、三女の威子が後一条天皇の中宮になった。一つの家から三人の后が並び立つことになり、人々は「一家三后」と驚いた。

威子が中宮に立った日の夜、道長の屋敷で祝いの宴が開かれた。酔った道長は、右大臣の藤原実資を呼んで、歌を詠むから返歌をせよと言い、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ。この世は自分のための世だと思う、満月に欠けるところが無いように、と。実資は、あまりに見事な歌なので返す歌はできない、皆でこの歌を唱和しましょう、と答え、居合わせた貴族たちが繰り返し歌ったという。この歌は道長自身の日記には書かれておらず、実資が自分の日記『小右記』に書き留めたことで今に伝わった。実資は道長に批判的な目を向けていた人物で、この記録にも皮肉が込められているとみる読み方がある。

金銅藤原道長経筒(国宝、金峯神社所蔵)、1691年(元禄4年)、大峯山寺本堂(山上蔵王堂)改築の際に出土[注釈 7]。
金銅藤原道長経筒(国宝、金峯神社所蔵)、1691年(元禄4年)、大峯山寺本堂(山上蔵王堂)改築の際に出土[注釈 7]。Wikimedia Commons Unknown author · Public domain

道長が書いた日記『御堂関白記』は、自筆の原本が今も残っている。自筆の日記としては現存する世界最古級のものとされ、2013年にユネスコの「世界の記憶」に登録された。書かれているのは、儀式の段取り、人事、贈り物、病気といった日々の記録で、字は大きく、ときに誤字や書き損じもある。権勢を誇るような言葉は少なく、儀式を正しく行うことに心を砕く、まめな政治家の姿が浮かび上がる。なお道長は関白には一度もなっておらず、「御堂関白」は後の人がつけた呼び名である。

同じ頃、宮廷の女房たちが、仮名で物語や随筆を書いていた。彰子に仕えた紫式部は『源氏物語』を書き、道長はその執筆を紙や筆で支えたといわれる。彰子のもとには和泉式部や赤染衛門も仕えた。一方、道長に敗れた道隆の娘の定子に仕えた清少納言は『枕草子』を残した。后たちが才ある女房を競って集めたことが、この時代の仮名文学の花を咲かせた。政治の頂点と文学の頂点が同じ時期に重なり、どちらも一つの一族の家の中で起きていたことになる。

『源氏物語』に関わる図版:Genji emaki 01003 002
『源氏物語』Wikimedia Commons Imperial Palace Kyoto · Public domain

晩年の道長は病に苦しみ、1019年に出家した。都の東に法成寺という壮大な寺を建て、極楽浄土を地上に写そうとした。1027年に亡くなるとき、道長は阿弥陀仏の像の手から引いた糸を自分の手に握り、念仏を唱えながら息を引き取ったと『栄花物語』は伝える。

道長の子の藤原頼通は、50年にわたって摂政・関白をつとめ、宇治に平等院鳳凰堂を建てた。だが頼通の娘には皇子が生まれず、藤原氏を外戚としない後三条天皇が1068年に即位する。その子の白河天皇は位を譲ったあとも上皇として政治を動かし、やがて院政(院政の開始)の時代が始まる。外祖父として天皇を支える摂関の政治は、道長の代を頂点に、少しずつその力を失っていった。

動画(1)

036 摂関政治の展開 日本史ストーリーノート第05話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第36講「摂関政治の展開」

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