『古事記』の完成
概要
天武天皇が稗田阿礼に誦習させた帝紀と旧辞を、太安万侶が4か月で書いた。3巻。神代から推古まで。「上巻は神、中巻は英雄、下巻は王」。漢字で日本語を書こうとして、「音と訓を混ぜた」。読めなかった。本居宣長が35年かけて読んだ。
場所
34.69°N 135.79°E · 日本・奈良県
本文
712年(和銅5年)正月28日、太安万侶は、天皇の命令でまとめた書物を元明天皇に差し出した。上・中・下の3巻からなる『古事記』である。天地の初めから神々の物語、そして推古天皇までの天皇の系譜と物語を収めた、現存する日本最古の書物とされる。その成り立ちは、安万侶が巻頭に書いた序文だけが伝えている。
序文によれば、事の起こりは天武天皇にある。壬申の乱に勝って即位した天武は、諸家に伝わる天皇の系譜(帝紀)と古い物語(本辞・旧辞)が、事実と違い、偽りを多く加えられていると憂えた。いま正さなければ、何年もたたないうちに本当の姿が失われてしまう。これは国家の根本、天皇の政治の土台である。そう考えた天武は、伝えを調べて正しいものを定め、偽りを削って後の世に残そうとした。

その役を与えられたのが、天皇のそば近くに仕えていた稗田阿礼である。年は28歳、聡明な人で、目にしたものはすぐに口で唱え、耳にしたものは心に刻んで忘れなかったという。天武は阿礼に、天皇の系譜と昔の物語を「誦み習わせ」た。ただ暗記させたのではなく、古い記録を正しく読み、語れるようにさせたのだと考える研究者が多い。阿礼が男だったか女だったかも、昔から議論になってきた。だが、天武が686年に死に、事業は文字の書物にならないまま残された。
それから25年ほどたった711年9月18日、天武の子の草壁皇子の妃だった元明天皇が、太安万侶に、阿礼が誦む天武の定めた旧辞を書き記して献上せよと命じた。安万侶は4か月あまりで仕事を終えた。前年の710年には都が平城京に移っており(平城京遷都)、律令の国家が形を整えつつある時期だった(大宝律令)。

3巻の中身は、性格がはっきり分かれている。上巻は神々の時代で、イザナキとイザナミの国生み、黄泉の国、アマテラスとスサノオ、天の岩屋戸、ヤマタノオロチ、そしてオオクニヌシの国作りと国譲り、天孫ニニギの降臨、海幸彦と山幸彦の物語が続く。中巻は初代の神武天皇から15代の応神天皇まで、神と人とがまだ入りまじる英雄の時代で、ヤマトタケルの遠征と死の物語がその中心にある。下巻は仁徳天皇から推古天皇までで、皇位をめぐる争いや恋の歌が多く、神々はほとんど姿を見せない。ただし、24代の仁賢天皇より後は系譜だけで、物語は記されていない。
安万侶がいちばん苦労したのは、文字だった。日本語にはまだ自前の文字が無く、書くには漢字を借りるしかない。安万侶は序文でこう書いている。上古の言葉と心は素朴で、文章にして漢字で書くのは難しい。漢字の意味(訓)だけで書けば、言葉が心に届かない。漢字の音だけで書き連ねれば、文が長くなりすぎる。そこで、一つの句の中で音と訓を交ぜて使ったり、一つの事柄をすべて訓で書いたりした、と。神の名や歌はたいてい一字一音の音で書かれ、地の文は漢文に近い形で書かれている。日本語を漢字で書き表そうとする、手探りの試みだった。

その手探りの結果、『古事記』は後の時代の人には読みにくい本になった。8年後の720年には、正式な国の歴史として漢文で書かれた『日本書紀』の完成が完成し、朝廷で講義され、読み継がれたのはもっぱらこちらだった。『古事記』は神道の家などで細々と写されるだけになった。現存する最古の写本は、14世紀に名古屋の真福寺の僧が写したものである。
『古事記』を本格的に読み解いたのは、江戸時代の国学者本居宣長だった。宣長は1764年に注釈に取りかかり、35年後の1798年に全44巻の『古事記伝』を書き上げた(本居宣長『古事記伝』)。一字一字の読み方を、古い歌や祝詞と比べながら決めていった仕事で、いま私たちが読む『古事記』の読み下しの多くは、宣長の読みが土台になっている。宣長は、中国風の理屈(漢意)に染まった『日本書紀』よりも、古い日本人の心がそのまま残る『古事記』こそ尊いと説いた。

同じ時代を扱いながら、二つの書物の中身はかなり違う。『日本書紀』は一つの話に複数の異伝を並べるが、『古事記』は一本の筋で語る。とくに違いが大きいのは、出雲を舞台にしたオオクニヌシの物語で、因幡の白兎、兄弟の神々からの迫害、根の国での試練といった話は、ほとんど『古事記』にしか出てこない。ヤマトタケルも、『日本書紀』では父の天皇に信頼される皇子だが、『古事記』では荒々しさを父に恐れられて遠ざけられ、故郷を思う歌を残して死ぬ悲劇の英雄として描かれる。なぜ天武がこのような書物を作らせたのか、なぜ国の正式な歴史とは別に必要だったのかは、はっきりとは分かっていない。皇室の系譜と神話を一つの筋にまとめ、天皇が国を治める由来を示すためだったとする見方が一般的である。
『古事記』の成立を記録した同時代の史料は、この序文のほかに無い。正式な国の歴史である『続日本紀』にも、『古事記』の献上のことは書かれていない。そのため江戸時代から、『古事記』や序文は後の時代に作られた偽物ではないかという説が唱えられてきた。ところが1979年、奈良市の東の山あいの茶畑から、太安万侶の墓が見つかった。銅の板に刻まれた墓誌には、平城京の左京四条四坊に住んだこと、従四位下勲五等の位、723年(養老7年)7月6日に死んだことが記されていた。序文の撰者が実在の人物であったことが、こうして確かめられた。もちろん、それで本文のすべての謎が解けたわけではなく、成立をめぐる議論はいまも続いている。2012年には、『古事記』の完成から1300年を記念する催しが各地で開かれた。