粘土のトークン
概要
西アジアの各地から、親指の先ほどの粘土の小片が大量に出る。円錐、球、円盤、四面体。羊一頭、油一壺というふうに、物の種類ごとに形が決まっていたと考えられている。やがてこれを中空の粘土の球に入れて封をし、円筒印章を転がした。中身が見えないので、外側に同じ数だけ印を押すようになる。すると球そのものが要らなくなり、平たい板に印を押すだけになった。数を表す記号が先にあり、物の名を表す記号は後から加わった。書くことは、数えることの副産物として始まった。
場所
31.32°N 45.64°E · イラク・ムサンナー県
本文
西アジアの遺跡を掘ると、あちこちから親指の先ほどの小さな粘土の粒が出てくる。円錐、球、円盤、四面体、円筒、卵形と、形はいくつかに決まっていて、焼き固めてある。古いものは紀元前8000年ごろ、農耕が始まって間もない時代にさかのぼり、文字の誕生より5000年近く早い。
長いあいだ、これが何なのか誰にも分からなかった。発掘報告には「用途不明の小型粘土製品」と書かれ、多くは箱に入れられたまま収蔵庫で眠っていた。子どもの遊び道具か、お守りか、まじないの道具だろうと考えられていた。

この小片を一つの問いとして見直したのが、フランス出身の考古学者デニス・シュマント=ベッセラである。1970年代、彼女は古代の粘土の使われ方を調べるうちに、各地の博物館に散らばっていたこの粒をまとめて見て回った。そして、トルコからイランまでの広い範囲で、数千年にわたって同じ形が使われていることに気づく。さらに、そのいくつかが後の楔形文字の成立の記号とよく似ていた。円錐や球は穀物の量を表す記号に、十字を刻んだ円盤は羊を表す記号に近い。紐を通す穴の開いたものもあった。
彼女はこう考えた。これは物を数えるための代用品である。羊1頭に粒を1つ、油1壺に1つ。物の種類ごとに形を変えて、数の記録を手の中で持ち運べるようにしたのだ、と。1992年の著書『書く前に』にまとめられたこの説には、批判もある。形と物の対応がすべて確かめられたわけではなく、別の用途の粒が混ざっている可能性も指摘されている。それでも、トークンが数を記録する道具だったという大筋は、広く受け入れられている。
紀元前4千年紀の終わりごろ、この粒を入れる新しい容れ物が現れる。直径5センチから10センチほどの中が空洞の粘土の球で、ブッラ(封球)と呼ばれる。南メソポタミアのウルクやイラン南西部のスーサなどから見つかっており、割ってみると中から粒がいくつも出てくる。球の表面には円筒印章を転がした跡が付いている。スーサのブッラを研究したフランスの考古学者ピエール・アミエらは、すでに1960年代に、中の粒を数の記録と見ていた。
なぜわざわざ球に入れたのか。荷物と一緒に送る送り状として持ち運ぶためであり、中身をすり替えられないようにするためでもある。球を割らなければ中の粒は変えられず、割ればすぐに分かる。表面の印章は、誰がこの数を保証したかを示す署名だった。羊飼いが羊を預かったときや、穀物を運ぶとき、受け取る側は球を割って中の粒と実物を突き合わせればよい。

だが、この仕組みには困ったところがあった。中身が見えないのである。確かめるには割るしかなく、割れば封の意味がなくなる。そこで人々は、中に入れたのと同じ粒を、封をする前に球の外側にも押し当てておくようになった。粒の形がそのまま窪みになって残る。実際に、粒を表面に押し付けた跡のあるブッラが見つかっている。これで割らなくても中身が読める。
そうなると、外の跡だけで用が足りることに気づく。球はいらなくなり、平らな粘土の板に印を押すだけになった。やがて押すのをやめて、葦の尖筆で線を描くようになる。押すより速く、細かい区別も書ける。ウルクから出る紀元前3300年ごろからの最古の粘土板は、ほとんどが帳簿である。穀物の量、家畜の頭数、労働者に配った大麦やビールの量が記されている。ウルク。都市というものの始まりは、そうした記録を必要とするほど大きな都市になっていた。
ここに、この話の要がある。数の記号のほうが先にあり、それが「何の」数なのかを示す記号は後から加わった。初期の粘土板では、数を表す部分は尖筆の端を押し込んだ丸い跡で、物を表す部分は尖筆で描いた線画である。作り方が違うのは、出どころが違うからだと考えられている。押し付けた跡はトークンの名残で、描いた絵は新しく加わった部分だった。
数の数え方も一つではなかった。穀物の量、畑の面積、家畜の頭数というように、何を数えるかで別々の記数法を使い、それぞれ繰り上がる単位が違っていた。同じ記号でも、穀物を数えるときと羊を数えるときで表す数が変わる。のちに六十進法として整っていくメソポタミアの数の体系は、こうした入り組んだ記数法を何百年もかけて整理した結果である。
やがて記号は物の形を離れ、音を表すようにもなる。音で書けるようになると、人の名前や、絵に描けない言葉も書ける。そこから法も、祈りも、手紙も、ギルガメシュの物語も書かれていった。だがその出発点は、少なくともメソポタミアでは、歌や祈りではなく、羊が何頭いるか、麦を誰にどれだけ渡したか、という帳簿だった。
数を記す道具が、必ず文字に育つわけではない。アンデスのキープは縄の結び目で数を記す道具として高度に完成したが、文字にはならなかったと考えられている。イングランドの割り符と国庫は数百年にわたって数だけを刻み続けた。メソポタミアで数の記録が文字へ進んだのは、中身の見えない封球という面倒な段階を通ったからかもしれない。内側の中身を外側に書き写したら、その写しのほうが元より便利だった。書くことは、数えることの副産物として始まったのである。