人物

エドワード・ギボン

Edward Gibbon
AD1737年5月8日 – AD1794年1月16日(享年56)
イギリス重要度 4

概要

ローマの廃墟で托鉢僧の晩祷を聞いて、衰亡史を書こうと決めたと自伝にある。20年かけて全6巻。史料に脚注を付けて書く歴史の型を作った。

関わったできごと(1)

『ローマ帝国衰亡史』の刊行AD1776年 · 著者

本文

1737年、ロンドン南西のパトニーで、地主の家に生まれた。7人きょうだいの長男だったが、ほかの子はみな幼くして死に、成人したのは彼一人だった。彼自身も病弱で、何度も死にかけた。母は彼が10歳のときに亡くなり、育ててくれたのは独身の叔母だった。学校にはほとんど通えず、叔母に励まされて、手当たり次第に本を読んだ。歴史書に夢中になったのはこのころである。

エドワード・ギボン。『国富論』を称賛した
エドワード・ギボン。『国富論』を称賛したWikimedia Commons Henry Walton · Public domain

15歳でオックスフォード大学のモードリン・カレッジに入った。のちに自伝で、そこで過ごした14か月は人生で最も無駄な時間だった、と書いている。教師たちは何も教えなかった。独りで神学書を読みふけるうちに、16歳でカトリックに改宗した。当時のイギリスで、カトリック教徒は大学にいられない。退学になった。

激怒した父は、彼をスイスのローザンヌに送り、プロテスタントの牧師の家に預けた。1年半後、彼はプロテスタントに戻る。ローザンヌでの5年間で、ラテン語の古典を読み通し、フランス語で考え、書く人間になった。近くの村の牧師の娘シュザンヌ・キュルショと恋に落ち、婚約までした。だが父は外国人との結婚を許さなかった。彼は自伝に、恋人として嘆き、息子として従った、と書いている。シュザンヌはのちにフランスの財務総監ネッケルの妻となり、作家スタール夫人の母になった。

オックスフォード大学マグダレン・カレッジ
オックスフォード大学マグダレン・カレッジWikimedia Commons Ed Webster · CC BY 2.0

帰国後、七年戦争の時期に、地元の民兵隊の将校として2年半を過ごした。退屈な日々だったが、のちに、民兵隊の大尉としての経験はローマ軍団の歴史家に無駄ではなかった、と書いている。1761年、フランス語で最初の本を出した。

1763年から大陸を旅した(グランドツアー)。翌1764年10月15日、ローマのカピトリウムの丘の廃墟に座っていると、かつてユピテルの神殿が建っていたあたりで、裸足の修道士たちが晩祷を歌っているのが聞こえた。そのとき初めて、この都の衰亡を書こうという考えが心に浮かんだ、と自伝にある。この場面の描写は何度も書き直されており、どこまでその日の実感なのかは分からない。それでも、ここから一つの大仕事が始まったことは確かである。

スザンヌ・キュルショー(ネッケル夫人)
スザンヌ・キュルショー(ネッケル夫人)Wikimedia Commons Joseph-Siffred Duplessis · Public domain

実際に書き始めたのは、父が亡くなり、ロンドンで独り暮らしを始めた1770年代だった。1774年からは下院議員を務め、首相ノース卿の政府を支持して閣外の役職にも就いた。だが議会では一度も演説していない。人前で話す勇気が無かったと、自分で認めている。

1776年、『ローマ帝国衰亡史』の第1巻が出た(『ローマ帝国衰亡史』の刊行)。2世紀の帝国の繁栄から書き起こす大著で、出てすぐに売り切れ、版を重ねた。死を数か月後に控えたデイヴィッド・ヒュームは、イギリス人にこれほどの歴史書が書けるとは、と称える手紙を送っている。同じ年に出たアダム・スミスの『国富論』と並んで、この年のイギリスの知的な事件になった。

ギボンが民兵隊士官として一時指揮したポーチェスター城
ギボンが民兵隊士官として一時指揮したポーチェスター城Wikimedia Commons Rob Nunn · CC BY 2.0

第1巻の最後の2章、第15章と第16章が嵐を呼んだ。キリスト教がなぜ広まったのかを、神の摂理ではなく、信者の熱意や組織の巧みさといった人間の理由で説明し、初期の殉教者の数も教会の伝えより少なく見積もった。そのうえで、キリスト教の広がりがローマの衰えの一因だったと示唆した。聖職者たちから攻撃の小冊子が次々に出た。彼は皮肉を込めた反論を一度書いただけで、あとは黙って書き続けた。

1781年に第2巻と第3巻が出て、西ローマ帝国の滅亡までを書いた(西ローマ帝国の滅亡)。だが彼はそこで止まらず、東のローマ帝国が1453年に滅ぶまで、さらに千年を書き継ぐことにした。1783年、議席を失った彼はローザンヌに移り、残りの3巻を書いた。1787年6月27日の夜、庭の東屋で最後の一行を書き終えた。湖と山と月を眺め、自由を得た喜びと、長年の友に別れを告げる寂しさを同時に感じた、と自伝にある。1788年に第4巻から第6巻が出た。

フレッチングの教会にあるギボンの記念碑
フレッチングの教会にあるギボンの記念碑Wikimedia Commons Antiquary · CC BY 4.0

彼の本が新しかったのは、文体だけではない。古代の史料から近代の研究まで膨大な文献を読み、それを脚注で一つ一つ示した。脚注には辛辣な冗談も多く、本文と並ぶ読みどころになった。史料を示して論じる近代の歴史叙述の型を作った一人とされる。衰亡の原因を、彼は野蛮と宗教の勝利と要約している。

小柄で太っていて、顔は丸く、社交の席では話がうまかった。生涯独身だった。フランス革命が起こると、ローザンヌにも亡命貴族が押し寄せた。彼は革命を嫌い、バークの革命批判に共感した。1793年、親友の妻が亡くなった知らせを受けてイギリスに戻ったが、長年患っていた陰嚢の腫れが悪化し、手術のあとの感染で、1794年1月16日、ロンドンで死んだ。56歳だった。

ギボンの肖像、レノルズ画(1779年)
ギボンの肖像、レノルズ画(1779年)Wikimedia Commons Joshua Reynolds · Public domain

晩年に何度も書き直していた自伝は、友人が死後にまとめて出版した。『ローマ帝国衰亡史』は、その後200年以上、英語で書かれた歴史書の古典として読み継がれている。彼の問い、なぜ大帝国は滅ぶのか、はいまも繰り返し問われ続けている(物語「『ローマ帝国衰亡史』で読むローマ」)。

動画(1)

LITERATURE - Edward GibbonThe School of Life人物と本を4分で
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