人物

アイザック・ピットマン

Isaac Pitman
AD1813年1月4日 – AD1897年1月22日(享年84)
イギリス重要度 3

概要

織物工場の事務員の子で、十三歳で学校をやめた。独学で教員になり、村の学校を任された。新教会派に改宗したことで職を追われている。1837年、音を基準とする速記法を発表し、安価な小冊子で売った。郵便で添削する通信教育を組織し、弟子と兄弟が各国へ広めた。英語の綴りを発音どおりに改める運動にも生涯を費やし、こちらは実らなかった。菜食主義者で禁酒家、そして八十四歳まで働いた。

関わったできごと(1)

ピットマン式速記AD1837年 · 作った

本文

アイザック・ピットマンは1813年1月4日、イングランド西部ウィルトシャー州の織物の町トロウブリッジに生まれた。父サミュエルは織物工場の事務員で、のちに小さな工場を持った。子どもは11人、アイザックは3番目だった。体が弱く、教室の悪い空気の中でたびたび気を失ったと本人がのちに書いている。13歳で学校をやめ、父の工場で事務員として働いた。

ピットマン生誕百年を記念する切手
ピットマン生誕百年を記念する切手Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

学校はやめても、学ぶことはやめなかった。朝早く起きて本を読み、父が家に置いていた小さな図書室の本で独学した。発音の辞典を丹念に読み込み、自分が多くの語を誤って発音していたことに気づいたと伝えられる。言葉の発音と綴りの食い違いに興味を持ったのも、このころだった。英語では同じ音がいくつもの綴りで書かれ、同じ綴りがいくつもの音で読まれる。

1831年、彼はロンドンの教員の養成所で5か月の課程を学び、翌年にはリンカンシャーのバートン・アポン・ハンバーで学校を任された。のちにグロスターシャーのウットン・アンダー・エッジの学校に移った。若い校長の評判はよかった。ところが1837年、彼はスウェーデンの神秘思想家スウェーデンボリの教えを奉じる新エルサレム教会に入り、それを理由に職を追われた。彼は温泉町バースに移り、自分で私塾を開いて、そこで速記を教え始めた。

ピットマンが1863年に印刷したミクマク語訳聖書
ピットマンが1863年に印刷したミクマク語訳聖書Wikimedia Commons no original authorship · Public domain

同じ1837年の11月、彼は速記の小冊子を出した。わずか十数ページ、値段は4ペンス。誰でも買えるように、という値段だった(ピットマン式速記)。速記は、話す速さで言葉を書きとるための技術で、古くは古代ローマのティロの記号(ティロの速記)にさかのぼる。それまでのイギリスの速記の多くは、綴りをもとに記号を当てていた。ピットマンは綴りを捨て、耳に聞こえる音をもとにした。似た音どうしは似た形の線で書き、濁る音と濁らない音は線の太さで書き分け、母音は点や短い線で添える。1840年、改訂版を『フォノグラフィー』(音の筆記)の名で出し、以後も生涯に何度も版を改めた。そのたびに記号が変わり、習った人々を困らせもした。

1840年1月10日、イギリスで全国一律1ペニーの郵便制度が始まった(ペニー・ブラックと郵便改革)。ピットマンはすぐにこれを使った。学ぶ人が練習した速記を郵便で送ってくる。彼が赤で直して送り返す。返信の切手代を自分で持ち、一日に何十通も添削したと伝えられる。無料で引き受けた時期もあった。郵便による通信教育の、きわめて早く、大規模な例である。

菜食主義協会の指導者たちとともに写るピットマン(前列中央)
菜食主義協会の指導者たちとともに写るピットマン(前列中央)Wikimedia Commons Anonymous Unknown author signed · Public domain

1840年代には、バースに教材を刷る印刷所を備えた拠点を作り、雑誌や教本を大量に出した。兄弟たちも各地へ散って教えた。弟のベンジャミンはアメリカへ渡ってシンシナティで方式を広め、アメリカ向けに少し手を加えたため、兄弟の間で論争にもなった。弟子たちはオーストラリア、インド、各地の英語圏へと広がった。

彼にはもう一つの生涯の仕事があった。英語の綴りを発音どおりに改めることである。彼は音をそのまま表す新しい文字を作り、それで聖書やシェイクスピア、雑誌を刷って世に出し、多額の金をつぎ込んだ。だが綴りは変わらなかった。後年、劇作家バーナード・ショーも同じ考えを支持し、新しい字母を作るための金を遺言で残したが、これも根づかなかった。

暮らしぶりは厳格だった。肉を食べず、酒を飲まず、たばこを吸わなかった。どれも当時は少数派である。朝早くから夜まで規則正しく働き、その習慣を80代まで続けた。1894年、ヴィクトリア女王から騎士の位を受けた。1897年1月22日、彼はバースで死んだ。84歳だった。

「ピットマン」は、イギリスと英連邦の国々で速記の代名詞になった。新聞記者は議会や法廷の発言を速記で書きとり、それが翌朝の紙面になった。彼の名を冠した学校が各地にでき、速記とタイプと簿記を教えた。会社の事務所で速記とタイプを使う仕事は、19世紀の終わりから、多くの女性に職を開いた。

方式そのものは、20世紀の後半になると使われなくなっていった。線の太さで音を書き分けるため、太さを変えにくいボールペンには向かない。アメリカでは、太さを使わないグレッグ式が広まった。やがて録音機と、さらに後には声を文字にする機械が、速記者の仕事を引き継いだ。それでも、聞こえたとおりに書く、という彼の考えは、音から文字へ移す技術の根っこにいまも生きている。

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