ブーディカの反乱
概要
ローマの入植地を三つ焼いた。記録はすべてローマ側のもので、彼女自身の言葉は残っていない。
場所
51.89°N 0.90°E · イギリス・イングランド(コルチェスター)
関わった人(1)
ブーディカ?–AD61年頃 · イケニ側 · 総指揮本文
クラウディウスのブリタニア征服から17年がたっていた。ローマはブリタニアの南東部を属州にし、各地の部族の王の一部を、ローマに従う代わりに位を保つ従属王として残していた。いまのイングランド東部ノーフォークのあたりにいたイケニ族の王プラスタグスもその一人だった。
プラスタグスは死に臨んで、遺言で財産の半分をローマ皇帝ネロに譲り、残りを二人の娘に残そうとした。皇帝を相続人に加えれば、家と国は守られると考えたのだろう。だが、ローマ側はそうは受け取らなかった。従属王の死とともに王国は属州に吸収されるものとみなし、財務を預かる役人の手先が王国を接収した。タキトゥスによれば、王の妻ブーディカは鞭打たれ、娘たちは暴行された。イケニの有力者は財産を奪われ、王の親族は奴隷のように扱われた。

不満はイケニだけのものではなかった。南隣のトリノウァンテス族は、かつての本拠カムロドゥヌム(いまのコルチェスター)をローマの退役兵の入植地にされ、土地を追われていた。町の中心には神となったクラウディウスを祀る神殿が建てられ、その維持の負担が部族の有力者にのしかかっていた。ローマの金貸しが貸した金を急に取り立てたことも反感を強めたと、カッシウス・ディオは書いている。
蜂起は紀元60年か61年に起きた。年は史料によって分かれる。そのとき属州総督スエトニウス・パウリヌスは、主力を率いて西の果てのモナ島(いまのアングルシー島)を攻めていた。反ローマの拠点とされたドルイドの聖地をつぶすためで、東は手薄になっていた。

ブーディカに率いられた軍勢は、まずカムロドゥヌムを襲った。城壁は無く、守る兵もわずかで、住民は神殿に立てこもったが、二日で落ちた。救援に向かった第9軍団の一部は途中で打ち破られた。急ぎ戻ったパウリヌスは、商業の町として育っていたロンディニウム(いまのロンドン)にたどり着いたが、手元の兵では守れないと判断して町を捨てた。ロンディニウムは焼かれ、続いてウェルラミウム(いまのセント・オールバンズ付近)も焼かれた。コルチェスターとロンドンの地下には、このときの火災でできた赤く焼けた土の層が今も残っている。
三つの町で殺された人の数を、タキトゥスは7万、ディオは8万と書く。数字はローマ側の記録で、誇張を含む可能性がある。ディオは、捕らえられたローマ人の女性たちへの残虐な仕打ちも書き残しているが、これも敵の野蛮さを強調するための筆とみる研究者がいる。
パウリヌスは兵を集め直し、およそ1万の兵で決戦に臨んだ。場所は分かっていない。イングランド中部の、ローマの街道沿いのどこかとされる。パウリヌスは背後を森に守られた狭い谷の入口に陣取り、正面を開けた平地に向けた。ブリトン人の軍勢ははるかに多く、家族を乗せた荷車を戦場の端に並べて見物させるほどだったという。だが、狭い正面に押し寄せた大軍は投げ槍の雨を浴び、くさび形の隊列で押し返されて崩れた。逃げ道は自分たちの荷車にふさがれていた。タキトゥスはブリトン人の死者を8万、ローマ側を400ほどと書く。
ブーディカの最期について、タキトゥスは毒を飲んだと書き、ディオは病で死んだと書く。どちらが正しいかは分からない。墓の場所も伝わっていない。
反乱のあと、ローマは報復として周辺の部族の土地を荒らしたが、やがて行き過ぎを改め、総督を替えて融和に転じた。皇帝ネロは一時、ブリタニアを放棄することまで考えたと伝えられる。ブリタニアは失われず、ローマの属州として5世紀の初めまで続いた。
記録はすべてタキトゥスとカッシウス・ディオによる。タキトゥスの義父アグリコラは、このとき若い将校としてパウリヌスの幕僚にいたとされ、タキトゥスの記述はその話を聞いたものかもしれない(タキトゥス『年代記』)。ブーディカが戦いの前に兵に語ったという演説も残っているが、どちらもローマ人が書いたもので、内容は二人の作家の間でまったく違う。本人の言葉は一つも残っていない。

彼女の名がふたたび脚光を浴びたのは、ずっと後のことだ。16世紀以降に古典が読まれるようになると、侵略者に立ち向かった女王として語られ始め、19世紀のヴィクトリア朝には、同じく女王を戴く大英帝国の象徴として英雄に祭り上げられた。ロンドンのウェストミンスター橋のたもとには、二人の娘を乗せた戦車を駆る彼女の銅像が立っている。ローマに抵抗した人物が、のちに別の帝国の誇りになった。