できごと

堂島の米市場

Dōjima Rice Exchange
AD1730年
重要度 5
堂島の米市場に関わる図版:Dojima komeichiba
Dojima komeichiba Wikimedia Commons Tonatsu · CC0

概要

大坂には諸藩の蔵屋敷が100以上あり、年貢米が集まった。米切手(米の引換券)が売買され、やがて、現物の受け渡しをせず、期日の値段の差額だけを決済する取引が生まれた。1730年、幕府が公認した。帳合米商い。世界で最初の、組織された先物市場とされる。値段は飛脚と旗振り信号で全国へ伝えられ、江戸まで数時間で届いた。相場の記録から、ローソク足の図が生まれた。

場所

堂島(大坂)
34.70°N 135.49°E · 大阪府

本文

江戸時代の武士は、米で給料を受け取り、藩は米で年貢を取った。ところが暮らしに要るのは金である。米はどこかで金に換えなければならない。その換金の場所が大坂だった。瀬戸内海と淀川の水運が集まるこの町に、諸藩は蔵屋敷を置いて年貢米を送り込み、売りさばいた。蔵屋敷の数は18世紀の前半で100を超え、米のほかにも砂糖、紙、蝋、藍、材木が全国から集まった。大坂が「天下の台所」と呼ばれたのはそのためである。

蔵屋敷に入った米は、蔵元と呼ばれる管理役の商人と、代金を扱う掛屋を通して、入札で売られた。落札した商人は、米そのものではなく米切手という証文を受け取る。蔵へ持っていけばいつでも米と引き換えられる、いわば米の引換券である。やがて商人たちは、米を引き取らずにこの米切手を転売するようになった。米切手が出回る量は、蔵にある米の量を上回ることもあった。値段は、天候、各地の作柄、江戸の需要の噂で日々動いた。

堂島米会所の浮世絵
堂島米会所の浮世絵Wikimedia Commons Yoshimitsu Sasaki · Public domain

米の取引は、はじめ北浜の豪商淀屋の店先で行われていた。淀屋は諸藩の米の売買と金融で巨富を築いたが、1705年、贅沢が過ぎるとして幕府に財産を没収された(闕所)。米市はその前、17世紀の末に、新しく開かれた堂島の地へ移っている。堂島川に面したこの場所で、取引は二つの形に分かれて育っていった。米切手そのものをやりとりする正米商いと、帳簿の上だけで米を売り買いする帳合米商いである。

帳合米商いでは、実物の米は動かない。代表となる銘柄の米を基準にして、いまの値段で売り買いの約束を結び、期日が来たら、そのときの相場との差額だけを金で清算する。いまの言葉で言えば、差金決済の先物取引である。取引の期間は年に三つの期に分けられ、各期の終わりにすべての約束が締め切られた。参加する者は証拠金にあたる敷銀を積み、取引の決済は専門の役目を負った両替商が引き受けた。米を一俵も持たない者でも、値上がりや値下がりを見込んで売り買いできる。そのぶん、作柄の悪い年に米を抱えた商人や藩は、先に値段を決めておくことで損を抑えることもできた。

浪花百景 堂じま米市 1800年代の米会所の様子。競りに熱中する仲買人たちの足元と入口辺りでそれを見守る人々。落ちた扇子やキセルから混乱ぶりが偲ばれる
浪花百景 堂じま米市 1800年代の米会所の様子。競りに熱中する仲買人たちの足元と入口辺りでそれを見守る人々。落ちた扇子やキセルから混乱ぶりが偲ばれるWikimedia Commons Utagawa Kunikazu · CC BY 4.0

幕府は長く、こうした空米の取引を投機として禁じたり、黙認したりを繰り返していた。転機は享保の改革の中で来る。享保の半ばは豊作が続いて米の値が下がり、米を金に換えて暮らす武士の家計が苦しくなっていた。米の値を支えたい将軍の徳川吉宗にとって、米の取引を盛んにすることは都合が良かった。1730年(享保15年)、幕府は堂島の米会所を公認し、帳合米商いも正式な取引として認めた。組織された先物市場が公に認められた例として、これは世界でも最も早いものの一つとされる。アメリカのシカゴ商品取引所が開かれるのは、それから118年後の1848年である。17世紀のアムステルダムの取引所(アムステルダム取引所)でも、株の受け渡しを先に約束する取引はすでに盛んだったが、それは商人どうしの相対の約束で、決まった期日と清算の仕組みを持つ市場ではなかった。

取引には独特の作法があった。取引の終わりは、火縄が燃え尽きる時と決められていた。火が消えても手を止めない者がいると、水方と呼ばれる係が水を撒いて人を散らした、と伝えられる。立会いが終わったあとの値段は記録され、全国の米の値の基準になった。

堂島で決まった値は、すぐに全国へ知らせる値打ちがあった。早飛脚のほかに使われたのが旗振り通信である。見晴らしの良い山や高い建物に人を置き、大きな旗を決まった形に振って、次の中継点へ値段を伝えていく。望遠鏡で旗を読み取り、また振る。京都へは数分、西は岡山や広島まで1時間足らずで届いたとされる。相場の情報はそれだけで金になったため、幕府は勝手な信号を取り締まった。旗振りは、明治の末に電話が普及するまで続いた。

相場の記録からは、値動きを図にして読む工夫も生まれた。一定の期間の始値、高値、安値、終値を一本の図形で表すローソク足である。出羽酒田の米商人本間宗久(1724〜1803年)がその読み方を体系化したと言われ、「酒田五法」の名で伝わっている。ただし本間の著作とされるものの多くは後の時代の作で、ローソク足そのものが成立した時期もはっきりしない。この図は1990年前後にアメリカで紹介され、いまでは世界中の株や為替の画面に並んでいる。

米が武士の給料であり、税であり、そして投機の対象でもあったこと。それが江戸の経済の不思議なところである。武士は米を売らなければ生活できず、その換算の割合は、商人が堂島で付ける相場で決まった。吉宗が「米将軍」と呼ばれるほど米の値の上げ下げに悩み続けたのも、身分の上では下にいる商人の市場が、武士の暮らしを左右していたからだった。凶作の年に米の値が跳ね上がると、町の人々の怒りは米屋へ向かった(享保の飢饉と打ちこわし)。

明治に入ると、米会所は投機の場としていったん廃止されたが、ほどなく取引は再開され、のちに堂島米穀取引所となった。1918年に米の値が跳ね上がり全国に騒ぎが広がったとき(米騒動)にも、取引所での投機は値上がりの元凶の一つとして非難された。1939年、戦争に向けた米の統制で取引所は閉じられ、二百年余り続いた堂島の米相場は終わった。それから70年余りのち、2011年に米の先物の試験的な上場が始まり、議論を呼んだ。堂島の跡地には、いま記念の碑が立っている。

同じ時代のできごと

書いた人の権利AD1710年ニューコメンの蒸気機関AD1712年ユトレヒト条約AD1713年持続可能という言葉AD1713年経度法AD1714年享保の改革1716年康熙字典AD1716年ワトー『シテール島への船出』AD1717年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1730年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →