人物

E・H・カー

Edward Hallett Carr
AD1892年6月28日 – AD1982年11月3日(享年90)
イギリス重要度 3

概要

外交官からソビエト史の研究者に転じた。歴史とは事実と歴史家のあいだの対話だ、という講義録が、いまも歴史学の入口に置かれている。

関わったできごと(1)

『歴史とは何か』の講義AD1961年1月〜3月 · 講義した

本文

エドワード・ハレット・カーは1892年6月28日、ロンドンの中流の家に生まれた。名門の私立学校からケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジへ進み、ギリシア・ローマの古典を学んだ。成績は優秀で、のちに自分は保守的で自由主義的な、19世紀の空気の中で育ったと振り返っている。

1916年、第一次世界大戦のさなかに外務省に入った。視力の問題で兵役を免れたためとされる。1919年にはイギリス代表団の一員としてパリ講和会議に加わり、敗戦国との条約づくりの現場を見た(ヴェルサイユ条約)。勝った側が自分たちの道徳を掲げながら、力で負けた側に条件を押しつける。その経験は、のちの彼の国際政治観に深く刻まれた。

ヴェルサイユ条約に関わる図版:Treaty of Versailles, English version
ヴェルサイユ条約Wikimedia Commons David Lloyd George, Woodrow Wilson and Georges Clemenceau · Public domain

1920年代の後半、カーはバルト海沿岸のラトヴィアの首都リガの公使館に勤めた。そこはソ連を外から観察する拠点だった。ロシア語を学び、ドストエフスキーやゲルツェンを読みふけり、ロシア革命とは何だったのかを考えるようになった。外交官の仕事のかたわら、ドストエフスキー、ゲルツェンらロシアの亡命者たち、マルクス、バクーニンの伝記を次々に書いている。

20年近く勤めた外務省を1936年に辞め、ウェールズのアベリストウィスの大学で国際政治学の教授になった。1939年、第二次世界大戦が始まる年に出したのが『危機の二十年』である。第一次世界大戦後の20年を、国際連盟と国際法、そして道徳の力で平和が保てると考えた「理想主義」の時代として描き、それが現実の力の関係を見なかったために破綻した、と論じた。国際政治は力と道徳の両方で動いている、という主張は、国際政治学の古典としていまも読まれる。ただ、初版にはナチス・ドイツへの宥和政策を支持する記述があり、後の版で削られた。

E・H・カーが『危機の二十年』(1939年)で批判したノーマン・エンジェル
E・H・カーが『危機の二十年』(1939年)で批判したノーマン・エンジェルWikimedia Commons George Grantham Bain Collection (Library of Congress) · Public domain

第二次世界大戦中は、タイムズ紙の論説の副主筆として、戦後の世界を論じる社説を書いた。ソ連との協調や、戦後の福祉国家と計画経済を訴える論調は、保守派から激しく批判された。ソ連に甘すぎるという評判は、その後も生涯つきまとった。

1950年、カーは大著『ソヴィエト・ロシア史』の第1巻を出した。1917年の革命から1929年までのソ連の歩みを、政治、経済、外交にわたって、膨大な文書と出版物をもとにたどった仕事である。途中から歴史家ロバート・デイヴィスらとの共同作業になり、全14巻が完結したのは1978年、カーが86歳のときだった。ボリシェヴィキの側から見すぎている、という批判を受けながらも、ソ連の初期の歴史を研究する人がまず手に取る基本の文献になった。

1961年、カーはケンブリッジ大学で連続講義を行い、それが翌年『歴史とは何か』として出版された(『歴史とは何か』の講義)。歴史家は事実をありのままに集めるのではなく、どの事実を取り上げるかを選び、意味づける。歴史家もまた自分の時代と社会の産物である。だから歴史とは、歴史家と事実のあいだの絶え間ない相互作用であり、現在と過去のあいだの終わりのない対話である、とカーは述べた。歴史を学ぶ前に、歴史家を学べ、とも言った。

講義はすぐに論争を呼んだ。哲学者アイザイア・バーリンや歴史家トレヴァー=ローパーは、カーが歴史を勝者の側から眺め、個人の責任や道徳的な判断を軽んじていると批判した。一方で、事実は自ら語らない、という指摘は広く受け入れられ、この本は世界中で歴史学の入門書として読まれ続けた。日本でも清水幾太郎の訳が1962年に出て、大学の授業で長く使われている(物語「『歴史とは何か』で読む歴史の読み方」)。

カーは私生活では寡黙で、気難しい人物と見られることが多かった。晩年まで仕事のペースは落ちず、『歴史とは何か』の改訂版の準備も続けていた。1982年11月3日、ロンドンで死んだ。90歳だった。外交の現場で力と言葉の関係を見つめた経験が、国際政治学とソ連史と歴史論という三つの分野に一冊ずつ古典を残させた。

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