
概要
江戸の後期、町と村に無数の私塾があった。師匠は僧、神官、浪人、医者、そして女性。一部屋に年齢のばらばらな子が集まり、それぞれ違う手本を写す。一斉授業ではない。教えたのは「読み書き算盤」と、往来物と呼ばれる実用の教科書(商売往来、百姓往来)。全国で1万数千以上あったとされる。幕末の日本の識字率は、男子で4割前後という推計がある。国家が作った制度ではなく、需要に応じて自然に増えた。
場所
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)
本文
**名前**。
「寺子屋」は、上方(関西)の呼び方である。江戸では「**手習指南所**」「**手跡指南**」と呼ばれた。
もとは、中世に寺が子どもを預かって読み書きを教えたことに由来する。江戸期には、寺とは関係のないものが大半になった。
**師匠**。
誰でも開けた。免許も、資格も、届出も要らない。
師匠の職業(幕末の調査から)——
- **浪人**(生活のために開く) - **僧**、**神官** - **医者** - **町人**(商家の隠居、手習いの上手な者) - **村役人** - そして——**女性**。
(都市部では、女師匠が2〜3割を占めた地域がある。特に、女子に裁縫と手習いを教える場合。)
報酬は、**束脩**(入門料)と、**節季の付け届け**。金額は決まっておらず、家の経済に応じた。
貧しい家からは取らないこともあった。
**教室**。
師匠の家の一部屋。
子どもは、**年齢がばらばら**である。7歳から13歳くらいまで。
**一斉授業ではない**。
一人ひとりが、**違う手本**を写している。
進度が違う。教える内容も違う(商家の子には商用の文、農家の子には農業の文、女子には女性用の手本)。
師匠は、机の間を回って、一人ずつ見る。「個別指導」である。
(絵に描かれた寺子屋の様子——渡辺崋山の『一掛百図』など——を見ると、子どもたちが騒ぎ、喧嘩し、居眠りし、いたずらをしている。師匠が一人を叱っている間、他は放置されている。)
**教材**。
**往来物**。
もとは、手紙の模範文例集(往復する文書、だから「往来」)。それが、あらゆる分野の教科書になった。
種類。
- **『庭訓往来』**(14世紀成立)——12か月の手紙の形式で、衣食住、農業、建築、武具、仏事の語彙を教える。江戸期を通じて最も広く使われた。 - **『商売往来』**(1694年)——商品の名、帳簿の語、度量衡、貨幣。商家の子の必読書。 - **『百姓往来』**——農具、作物、年貢の語。 - **『名頭』『国尽』『町名尽』**——人名の頭字、国の名、町の名。地理と固有名詞の暗記。 - **『実語教』『童子教』**——道徳。「山高きが故に貴からず、樹有るを以て貴しとす」。 - 女子用——**『女大学』**、**『女今川』**。
(往来物は、江戸期を通じて**7000種類以上**が出版された、とされる。)
**内容**。
「**読み・書き・そろばん**」。
- **読み**——仮名、そして漢字。素読。 - **書き**——毛筆。これが中心である。「手習い」という語が示すとおり。 - **そろばん**——商家の子には必須。
そして、実用の知識。証文の書き方、手紙の形式、度量衡、暦。
**数**。
明治初年の文部省の調査(各府県からの報告)で、幕末に存在した寺子屋として報告されたのは、**約1万5000**。
(この数字は、報告の不備で大幅に少ないとされる。実際には数万あった、という推計がある。)
**識字率**。
議論がある。
かつて「江戸の識字率は世界一で、男子8割」といった数字が広く語られた。この数字の根拠は、明確でない。
**より慎重な推計**。
- 明治初期の徴兵検査の記録(自分の名前が書けるか)から、地域差が非常に大きいことが分かる。 - 1877年頃の滋賀県の調査で、自署できる男性が約9割、女性が約4割。 - 一方、東北のある県では、男性でも3割程度という記録がある。 - 都市と農村、地域、性別、階層で、大きく違った。
(研究者の推計として、幕末の成人男性の「読み書き能力」の保有率は、**全国平均で4〜5割程度**、というものが比較的よく引かれる。ただし「読み書き」の水準の定義によって、数字は大きく変わる。)
いずれにせよ、**同時代の他の農業社会と比べれば、高い水準**だったことは、多くの研究が認めている。
**なぜ広まったか**。
**(1)需要**。
- **商業の発達**。証文、帳簿、手形、注文書。読み書きができなければ、商売にならない。 - **村の運営**。村方文書、年貢の割り付け、訴訟。村役人には、読み書きが必須である。 - **出版**。江戸期は、出版が大衆化した時代である。貸本屋が全国を回り、草双紙と読本が読まれた。読めなければ、楽しめない。 - **手紙**。奉公に出た子が、故郷へ手紙を書く。
**(2)供給が自由だった**。
誰でも師匠になれた。参入障壁がない。需要のあるところに、自然にできた。
(国家が作ったのではない。幕府は、寺子屋を統制も、支援もしていない。)
**(3)強制がない**。
行きたい子が、行きたい期間だけ行く。数か月でやめる子も、5年通う子もいた。
**藩校と私塾**。
寺子屋の上に、別の系統があった。
- **藩校**。武士の子のための学校。各藩に。全国で200以上。会津の日新館、萩の明倫館、水戸の弘道館。教えるのは、儒学(多くは朱子学)、武芸、そして後には蘭学と西洋の兵学。 - **私塾**。身分を問わず入れる、学者の私的な学校。緒方洪庵の**適塾**(大坂。福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内)、シーボルトの**鳴滝塾**、吉田松陰の**松下村塾**、広瀬淡窓の**咸宜園**(豊後日田。入門者は生涯で4000人を超え、身分と年齢と学歴を問わない「三奪の法」で知られた)。
**明治**。
1872年(明治5年)、**学制**。
「**邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん**」。
全国を8大学区、256中学区、5万3760小学区に分け、それぞれに学校を置く、という計画である。
(当時の日本の人口を考えると、およそ**600人に1校**。極めて野心的な計画だった。)
そして、実際の建設には、**寺子屋が使われた**。
- 寺子屋の建物が、そのまま小学校になった。 - 寺子屋の師匠が、そのまま小学校の教員になった。
(初期の小学校教員の多くが、寺子屋の師匠である。彼らは、伝習所で短期の講習を受けて、教壇に立った。)
**抵抗**。
学制は、歓迎されなかった。
- **学費が要る**。授業料と、学校の建設費を、住民が負担する。 - **子どもが労働力である**。農繁期に学校へ行かせる余裕がない。 - 教える内容が、実用と乖離していた。(初期の教科書は、西洋の翻訳が多く、農村の子に意味が分からなかった。)
**学制反対一揆**が、各地で起きた。1873年から、20件以上。学校が焼き討ちされた例がある。
(同時期の徴兵令と、地租改正への反発と、重なっている。)
**その後**。
- 1879年、教育令(学制を緩和)。1880年、改正教育令(また強化)。 - 1886年、**学校令**。小学校4年間の義務教育。 - 1900年、授業料の無償化。就学率が急上昇した。 - 1907年、義務教育6年。就学率**97%**。
**残ったもの**。
明治政府が、わずか30年で就学率を9割以上にできたのは、ゼロから始めたのではないからである。
既に、**読み書きを教える場所と、教える人と、そして「子どもに読み書きを習わせるものだ」という感覚**が、全国にあった。
その土台の上に、国家の制度が乗った。