ベルリン封鎖

概要
ソ連が西ベルリンへの陸路を絶ち、西側は空輸で1年支えた。撃ち合わずに競う戦い方が始まる。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
関わった人(1)
ハリー・トルーマンAD1884年5月8日–AD1972年12月26日 · 空輸本文
第二次世界大戦に敗れたドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国に分けて占領された。首都ベルリンは、ソ連の占領地区の奥深く、西側の地区から150キロ以上離れたところにあったが、ここも4か国で分けて治めることになった。西側の3か国の受け持ち地区を合わせた西ベルリンは、ソ連の占領地の中に浮かぶ島のような場所になった。そこへ通じる空の回廊は3本と文書で取り決められていたが、道路と鉄道の通行については、はっきりした取り決めが無かった。
戦争中の協力関係は、すぐに崩れた。1947年、アメリカは共産主義の拡大を食い止める方針を打ち出し(トルーマン・ドクトリン)、ヨーロッパの復興を助ける大規模な援助を始めた(マーシャル・プラン)。西側の3か国は自分たちの占領地区をまとめ、新しいドイツの国家を作る準備を進めた。1948年6月20日、西側の地区で新しい通貨ドイツ・マルクが導入され、数日後には西ベルリンにも持ち込まれた。ソ連はこれに強く反発した。

6月24日、ソ連は西ベルリンに通じるすべての道路、鉄道、運河を「技術的な理由」で閉ざした。東側の発電所からの電気も止まった。西ベルリンには200万人余りが住み、食糧の蓄えは1か月余り、石炭は1か月半ほどしか無かった。ソ連の狙いは、西側に西ドイツ国家の計画をあきらめさせるか、ベルリンから手を引かせることにあった。
アメリカの占領軍司令官クレイは、武装した車列で陸路を強行突破する案を唱えた。だがそれは、ソ連軍との撃ち合いにつながりかねない。大統領ハリー・トルーマンは、ベルリンにとどまると決めたうえで、空から物資を運ぶ道を選んだ。空の回廊は文書で保障されている。ソ連が輸送機を撃ち落とせば、戦争を始めたのはソ連の側になる。

6月26日、アメリカとイギリスの輸送機が飛びはじめた。はじめは200万人を養うには到底足りないと思われた。一日に必要な物資は、食糧と石炭を合わせて数千トンにのぼる。だが空輸の態勢は急速に整えられた。輸送機は数分おきに決まった高度と速度で回廊を飛び、着陸に失敗すれば着陸をやり直さずにそのまま引き返す決まりにして、流れを止めないようにした。西ベルリンにあった二つの飛行場に加え、市民たちが、女性も多く加わって、わずか3か月ほどで三つめの飛行場を造った。運ばれた物資の3分の2近くは、暖房と発電のための石炭だった。
市民の心も揺らがなかった。1948年9月、帝国議会の建物の前に30万人が集まり、のちの西ベルリン市長エルンスト・ロイターは、世界の諸国民よ、この町を見よ、と訴えた。アメリカの操縦士ゲイル・ハルヴァーセンは、飛行場の柵の外にいた子どもたちに、ハンカチで作った小さな落下傘にお菓子を結んで落とした。この話が広まると全米から菓子が寄せられ、ベルリンの子どもたちは輸送機を「レーズン爆撃機」と呼んだ。

空輸がいちばん活発になったのは、1949年4月の復活祭の日だった。24時間で1400近い便が飛び、1万3000トン近くを運んだ。ほぼ1分に1機が着陸した計算になる。西側は逆に、東側への物資の輸出を止めて圧力をかけた。封鎖が西側を屈服させられないことは、明らかになっていた。
1949年5月12日、ソ連は封鎖を解いた。11か月近くの間に、輸送機はのべ27万回以上飛び、230万トン余りの物資を運んだ。事故で命を落とした操縦士や地上の作業員は、アメリカ人とイギリス人、ドイツ人を合わせて100人前後にのぼる。

封鎖は、ソ連の狙いとは逆の結果をもたらした。封鎖のさなかの1949年4月、アメリカと西ヨーロッパの国々はNATOの結成で軍事同盟を結んだ。5月には西側の地区からドイツ連邦共和国(西ドイツ)が生まれ、10月にはソ連の地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が作られた。ドイツの分断は、この時に固まった。
ベルリン封鎖は、米ソが直接撃ち合うことなく、相手の意志を試し合った最初の大きな危機だった。核兵器を持つ大国どうしが、戦争の一歩手前で踏みとどまりながら競い合う。物語「冷戦」の戦い方は、ここで形になった。ベルリンはその後も東西の対立の最前線であり続け、1961年にはベルリンの壁の建設で町そのものが壁で分けられた。その壁が崩れるのは、1989年のことである(ベルリンの壁の崩壊)。