コミンフォルム
概要
マーシャル・プランへの答え。9か国の共産党がポーランドの山荘で。ジダーノフの「二つの陣営」。世界は帝国主義と反帝国主義に分かれた。翌年、ユーゴスラヴィアを除名した。チトーはスターリンに従わなかった。「一枚岩」に最初のひびが入った。
場所
52.23°N 21.01°E · ポーランド
関わった人(1)
チトーAD1892年5月7日–AD1980年5月4日 · 除名された本文
第二次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパの共産党は、どこもかつてない力を持っていた。ナチス・ドイツへの抵抗運動で中心となった党は多く、フランスとイタリアでは共産党が選挙で大きな票を集め、閣僚を出して政府に加わっていた。東ヨーロッパでは、ソ連の軍隊がいる国々で、共産党がほかの政党と組んだ連立の政府の中で力を伸ばしていた。世界の共産党を指導してきたコミンテルンは、戦争中の1943年、連合国との協力を重んじたスターリンによって解散させられていた。
1947年、その協力は崩れた。3月にアメリカはトルーマン・ドクトリンを打ち出し、6月には、ヨーロッパの復興を助けるマーシャル・プランを発表した。援助は東ヨーロッパにも開かれていたが、ヨシフ・スターリンは、アメリカの資金がソ連の勢力圏を切り崩すことを恐れた。ポーランドとチェコスロヴァキアは参加に心を動かしたが、ソ連の圧力で取り下げた。同じ年の5月には、フランスとイタリアで、共産党の閣僚が政府から外されていた。

1947年9月22日、ポーランド南西部の保養地シュクラルスカ・ポレンバの山荘に、9か国の共産党の代表が集まった。ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、そして西側のフランスとイタリアである。会議は秘密のうちに開かれた。ソ連の代表アンドレイ・ジダーノフは、世界は二つの陣営に分かれたと報告した。アメリカが率いる帝国主義と反民主主義の陣営と、ソ連が率いる反帝国主義と民主主義の陣営である。マーシャル・プランは、ヨーロッパをアメリカに従わせるための道具だとされた。
会議では、フランスとイタリアの共産党が厳しく批判された。議会と連立に頼り、政府から追い出されるまで手をこまねいていた、というのである。批判の先頭に立ったのは、ユーゴスラヴィアの代表カルデリとジラスだった。自分たちの力で解放戦争を戦い抜いたユーゴスラヴィアの共産党は、このとき、スターリンにもっとも忠実な優等生と見られていた。会議は、各国の党が経験を交わし、行動をそろえるための「共産党・労働者党情報局」、略してコミンフォルムを設けることを決めた。本部はユーゴスラヴィアの首都ベオグラードに置かれ、機関紙『恒久平和のために、人民民主主義のために!』が各国の言葉で刷られた。
ところが、優等生との関係はすぐにこじれた。チトーのユーゴスラヴィアは、ブルガリアと連邦を作る構想を進め、アルバニアに軍を送る準備をし、ギリシアの共産党のゲリラを独自に助けていた。ソ連に相談なく進められるこうした動きを、スターリンは許さなかった。1948年3月、ソ連はユーゴスラヴィアから軍事と経済の顧問を引き上げ、両党の間で非難の手紙が行き交った。
1948年6月28日、ルーマニアのブカレストで開かれたコミンフォルムの会議は、ユーゴスラヴィアの党の指導部がマルクス・レーニン主義から外れたと断じ、除名を決めた。ユーゴスラヴィアの代表は出席を拒んでいた。決議は、党の中の健全な人々が指導部を取り替えるよう呼びかけた。のちにフルシチョフが伝えたところでは、スターリンは、自分が小指を動かせばチトーはいなくなると言ったという。だが、チトーは国内の親ソ派を抑え、党と軍を握り続けた。共産主義の陣営は一枚岩だという見かけに、最初のひびが入った。
除名は東ヨーロッパに粛清の嵐を呼んだ。チトーの手先とされた指導者たちが、次々に見せしめの裁判にかけられた。ハンガリーのライクとブルガリアのコストフは1949年に処刑され、チェコスロヴァキアのスランスキーは1952年に処刑された。ポーランドのゴムウカは職を追われて投獄された。コミンフォルムの本部はブカレストへ移り、その仕事は、ユーゴスラヴィアを非難する宣伝が中心になっていった。
孤立したユーゴスラヴィアは、西側から援助を受けて生き延びた。1949年にはギリシアとの国境を閉ざし、ゲリラへの支援を断った。これはギリシアの内戦が共産党の敗北に終わる一因になった。スターリンの死のあと(スターリンの死)、ニキータ・フルシチョフは1955年にベオグラードを訪れて関係の修復をはかり、1956年4月、コミンフォルムは解散した。その年のフルシチョフの秘密報告からハンガリー動乱へと、ソ連の勢力圏は揺れ続ける。チトーは東西どちらの陣営にも属さない道を選び、1961年、ベオグラードで非同盟諸国の首脳会議を開いた。それは、6年前のバンドン会議に続く、もう一つの世界の声だった。