レーニン
概要
世界最初の社会主義国家を作った。マルクスの理論を、革命の実務に組み替える。
関わったできごと(2)
ロシア革命AD1917年 · 指導ブレスト・リトフスク条約AD1918年3月3日 · 飲んだ本文
1870年、ヴォルガ河畔の町シンビルスクに、ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフとして生まれた。父は県の学校を監督する視学官で、勤めの功で世襲貴族の位を得ている。家は教養があり、暮らしに困らなかった。のちに「レーニン」と名乗るこの少年は、帝政ロシアの体制の内側で育った。

1887年、兄アレクサンドルが皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に加わったとして処刑された。弟は17歳だった。同じ年にカザン大学に入るが、学生の集会に加わって放校され、監視の対象になる。大学に戻ることは許されず、独学で法律を学び、1891年にペテルブルク大学の検定試験に外部生として合格した。弁護士の補助として働いた期間は短い。
1895年、労働者の団体を組織したとして逮捕され、1897年からシベリアの村に3年流された。そこで同じ運動の仲間ナデジダ・クルプスカヤと結婚している。流刑が明けると1900年に国外へ出て、新聞『イスクラ(火花)』を出した。以後、1905年の革命で一時帰国した時期を除き、1917年まで亡命者としてヨーロッパの都市を転々とする。

カール・マルクスは、資本主義が最も発達した国で労働者が自然に革命へ向かうと考えた。ロシアはその条件を満たしていない。工場労働者は少なく、人口の大半は農民だった。1902年の『何をなすべきか』で、レーニンは労働者は放っておけば賃上げの要求にとどまると書き、規律で結ばれた少数の職業革命家の党が外から意識を持ち込み、先導すべきだと説いた。翌1903年の党大会で、この党の作り方を巡って党はボリシェヴィキ(多数派)とメンシェヴィキ(少数派)に割れた。
1914年に第一次世界大戦が始まると、各国の社会主義政党の多くは自国の戦争を支持した。レーニンはそれを裏切りと呼び、戦争を内乱に転化せよと主張した。1916年の『帝国主義論』では、大戦を資本主義が行き着いた列強の植民地争奪として説明している。この頃のレーニンはスイスにいて、自分の生きているうちに革命は見られないかもしれない、と語ったと伝えられる。

1917年3月(ロシアの旧暦では2月)、首都の暴動から二月革命(ロシア)が起き、帝政は倒れた。ドイツ政府は、戦争をやめさせたい革命家をロシアへ送り込めば敵を内側から崩せると考え、レーニンら亡命者を列車でドイツ領を通過させた。乗客がドイツ国内で外と接触しない約束から「封印列車」と呼ばれる。4月にペトログラードに着いたレーニンは、臨時政府を支持せず「全権力をソヴィエトへ」と訴える方針を掲げ、党内でも最初は孤立した。
7月の騒擾のあと、ドイツの手先として逮捕状が出され、フィンランドに潜んだ。そこで『国家と革命』を書いている。秋に戻ると、ためらう幹部たちを押し切って武装蜂起を決めさせた。旧暦10月25日、ボリシェヴィキの部隊は臨時政府のいる冬宮を押さえ、権力を握った。これがロシア革命の十月革命になる。レーニンは人民委員会議の議長になった。

権力の取り方は、その後も一貫していた。直後の憲法制定議会の選挙で、ボリシェヴィキは第一党になれなかった。1918年1月、議会は開会の翌日に解散させられた。3月にはブレスト・リトフスク条約でドイツと講和し、ウクライナやバルト地方を含む広い領土を手放した。党内には反対が強かったが、レーニンは何よりもまず権力を保つことを優先した。首都はモスクワに移された。
ロシア内戦が始まると、統制はさらに強まった。1917年末に作られた秘密警察チェーカーが反対者を捕らえ、1918年8月にレーニン自身が演説の帰りに撃たれて重傷を負うと、「赤色テロ」が公式に宣言された。穀物は農村から強制的に徴発され、7月には退位した皇帝一家がエカテリンブルクで銃殺されている。この処刑にレーニンがどこまで直接関わったかは、議論が続いている。

内戦には勝ったが、国は荒れ果てた。1921年、革命の拠点だったクロンシュタットの水兵が反乱を起こすと、レーニンは鎮圧させる一方で、徴発をやめて農民に余った穀物の売買を認める新経済政策(ネップ)に切り替えた。理論より状況を見て方針を変えるやり方は、生涯変わらなかった。1922年末、ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立する。
人柄を伝える話として、作家ゴーリキーの回想がある。ベートーヴェンの「熱情」ソナタを聴いて、こういう音楽を聴くと人の頭を撫でたくなるが、いまは頭を叩かなければならない時代だ、と言ったという。私生活は質素で、服装にも食事にも構わなかったと多くの人が書いている。

1922年5月、最初の脳卒中に倒れ、以後発作を繰り返した。その年の末から翌年初めにかけて、口述で党大会あての手紙を残している。のちに「遺書」と呼ばれるもので、書記長のヨシフ・スターリンは粗暴にすぎるとして、その職から外すよう提案していた。手紙は1924年の党大会で一部の代表に読み上げられただけで、公にされなかった。全文が国内で公表されたのは1956年である。
1923年3月の発作で言葉を失い、1924年1月21日、モスクワ郊外のゴールキで死んだ。53歳だった。遺体は防腐処理され、赤の広場の廟に安置された。首都ペトログラードはレニングラードと改められる。死後、その名は聖典のように扱われ、後継者たちは自分こそレーニンの正統だと主張して争った。マルクスの理論を、少数の党が権力を取り、保つための実務に組み替えたことが、20世紀の多くの革命の型になった。