アフリカの年
概要
一年で17か国が独立した。ただし国境は分割のときのまま引き継がれ、後の紛争の種になる。
場所
16.27°N -0.04°E · マリ
関わった人(2)
クワメ・エンクルマAD1909年9月21日–AD1972年4月27日 · 汎アフリカ主義の中心ジュリウス・ニエレレAD1922年4月13日–AD1999年10月14日 · タンガニーカ側本文
1960年の一年間に、アフリカで17の国が独立した。1月1日のカメルーンに始まり、4月にトーゴ、6月にマダガスカルとベルギー領コンゴ、7月にソマリア、8月には西アフリカと中部アフリカの旧フランス領が次々に続き、10月にはアフリカ最大の人口を持つナイジェリアがイギリスから独立した。11月のモーリタニアで17か国目になる。17のうち14は旧フランス領だった。この年は「アフリカの年」と呼ばれる。
前の年までにアフリカで独立国だったのは、古くからの国であるエチオピアとリベリア、白人が支配する南アフリカ連邦を除けば、エジプト、リビア、スーダン、モロッコ、チュニジア、ガーナ、ギニアの7か国にすぎなかった。19世紀末のベルリン会議とアフリカ分割で、ヨーロッパの国々が地図の上で分け合った大陸は、60年あまり植民地のままだった。

なぜ、一気に進んだのか。いくつもの流れが重なっていた。第二次世界大戦では、多くのアフリカ人がヨーロッパの軍隊の兵として戦い、宗主国が無敵ではないことを知った。戦後、植民地の都市で育った教育を受けた世代が政党を作り、自治と独立を求めた。1955年のバンドン会議では、独立したばかりのアジアとアフリカの国々が集まり、植民地主義に反対する声をそろえた。
旧宗主国の側も、もはや支えきれなくなっていた。1956年のスエズ危機で、イギリスとフランスはアメリカとソ連の双方から圧力を受けて兵を引き、かつての大国の限界をさらした。フランスは1954年からアルジェリア戦争で泥沼に陥り、ほかの植民地まで力で押さえる余裕は無かった。冷戦の両陣営は、新しく生まれる国々を味方につけようと競っており、独立を押しとどめることは相手陣営を利するだけだった。

旗印になったのは、1957年にクワメ・エンクルマの指導で独立した西アフリカのガーナだった。エンクルマは、アフリカの独立は大陸全体の解放と結びつかなければ意味がないと説く汎アフリカ主義の旗手だった。フランスでは1958年、ド・ゴールが植民地に、フランスと結びついた共同体に残るか、即座に完全な独立を選ぶかを国民投票で問うた。ギニアだけが独立を選び、フランスは役人も設備も引き揚げてこれに報いた。その2年後、共同体に残った国々も、結局はそろって独立へ進むことになる。
1960年2月、イギリスのマクミラン首相は南アフリカの議会で演説し、「変化の風がこの大陸を吹き抜けている」と述べた。白人支配を続ける南アフリカに向けた警告でもあった。翌月、南アフリカのシャープビルで、黒人に身分証の携帯を義務づける法律に抗議した群衆に警官が発砲し、69人が死んだ。独立の波と、それを拒む白人支配の硬さが、同じ年に並んで現れた。12月、国連総会は、植民地の人々に速やかに独立を与えるべきだとする宣言を採択している。
独立の喜びは、すぐに試練に変わった。6月末に独立したコンゴでは、わずか数日で軍が反乱を起こし、銅を産する南部のカタンガ州が、ベルギーの企業と軍に支えられて分離を宣言した。首相パトリス・ルムンバはソ連に助けを求めたことで西側の警戒を招き、解任され、翌1961年1月に殺される。コンゴ動乱は国連軍の介入を招き、長い混乱の始まりになった。

問題は、国境だった。新しい国々は、植民地時代に引かれた境界をそのまま国境として受け継いだ。その線の多くは、ヨーロッパの会議室で、川や緯線や経線をたどって引かれたもので、そこに住む民族の分布とは一致しない。一つの民族が二つ三つの国に分かれ、互いに争ってきた集団が一つの国に入れられた。独立とは、そうした寄せ集めの枠を一つの国民としてまとめる仕事を、独立したばかりの政府が引き受けることでもあった。
それでも、国境は変えられなかった。どこか一か所でも民族に合わせて引き直せば、大陸中で同じ要求が起き、無数の紛争になるからである。1963年に生まれたアフリカ統一機構の設立は、翌年のカイロでの首脳会議で、独立のときの国境を尊重することを決議した。この方針を強く主張した一人が、タンガニーカのジュリウス・ニエレレだった。エンクルマが夢見たアフリカ全体の統合は退けられ、主権を持つ数十の国が並ぶ形が固まる。

その線が、いまも残っている。ナイジェリアでは1967年、東部の住民が分離独立を宣言してビアフラ戦争になり、飢えで多くの人が死んだ。国境を越えて広がる民族と内戦の問題は、その後も繰り返し現れる。一方で、国境の引き直しをめぐる国どうしの大きな戦争は、アフリカでは比較的少なかった。決議は、ある程度まで目的を果たしたとも言える。
独立した国々の多くは、経済の面では旧宗主国とのつながりを断てなかった。旧フランス領の多くは、フランスが価値を保証する共通の通貨を使い続け、フランス軍の基地も残った。政治の独立と経済の独立のずれも、1960年に始まった問題の一つである。

国の内側でも、独立の熱気は長く続かなかった。新しい国々の多くは、国民をまとめるためと称して野党を禁じ、一つの政党が支配する体制に移っていく。1963年1月、トーゴの初代大統領オリンピオが軍人たちに殺され、サハラ以南のアフリカで最初期の軍事クーデターとなった。1966年には、汎アフリカ主義を掲げたエンクルマ自身が、外遊中のクーデターで政権を追われる。1960年に独立した17か国のうち、半数を超える国が、その後の10年のうちに軍のクーデターを経験している。独立は、終わりではなく、長い国づくりの始まりだった。