金本位制の崩壊
概要
イギリスが金との交換をやめ、各国が続いた。世界を一つに縛っていた仕組みが外れ、通貨のブロックに分かれていく。ポランニーはここを19世紀文明の終わりに置いた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
19世紀、世界の主な国の通貨は、決まった量の金と交換できた。イギリスはナポレオン戦争の後、1821年に紙幣と金の交換を再開し、金本位制を法の上で固めた(イギリスの金本位制)。1870年代にはドイツが、続いてアメリカ、ロシア、日本などが加わり、19世紀の末には金が世界共通のものさしになった。ポンドは金と同じように信用され、ロンドンは世界の金融の中心になった。
金本位制は、国の政策を縛る仕組みでもあった。輸入が増えて金が国外へ流れ出せば、通貨の価値を守るために金利を上げ、お金の量を絞らねばならない。物価と賃金は下がり、失業は増える。その痛みを受け入れることが、通貨の信用の代償だった。労働者の多くに選挙権が無かった時代には、それができた。

1914年、第一次世界大戦で各国は金との交換を止めた。戦後、イギリスはかつての地位を取り戻そうとし、1925年、大蔵大臣チャーチルのもとで、戦前と同じ交換比率で金本位制に戻った。ポンドは実力より高く据えられ、輸出は振るわず、失業が続いた。ケインズはこの決定を厳しく批判した。
1929年に始まった世界恐慌で、仕組みは耐えられなくなった。1931年5月、オーストリア最大の銀行クレディタンシュタルトが破綻し、不安はドイツの銀行に飛び火した。7月にはポンドが売られ、イングランド銀行の金が流れ出した。政府は財政を引き締めて信用を守ろうとし、失業手当の削減をめぐって労働党の内閣が倒れ、挙国一致内閣ができた。9月半ば、給料の削減に抗議して、スコットランドのインヴァーゴードンに停泊する艦隊の水兵たちが任務を拒んだ。海軍の反乱という報せに、ポンドの売りはさらに勢いを増した。

1931年9月21日、イギリスは金との交換を停止した。1821年から、戦争の時期を除いて守ってきた約束を、政府自身が破ったことになる。ポンドの値は、数か月で4分の1ほど下がった。それでも、恐れられたような混乱は起きなかった。金利を下げられるようになったイギリスの景気は、むしろ持ち直していった。
各国が続いた。北欧の国々や、イギリスと結びつきの強い国々が、すぐに金を離れた。前年に金本位制へ戻ったばかりの日本も、1931年12月に再び離れる(昭和恐慌)。アメリカは1933年、ローズヴェルトが国民の金の保有を禁じ、ドルを切り下げた。最後まで踏みとどまったフランスなどの国々も、1936年に離れた。のちの研究では、早く金本位制を離れた国ほど、早く不況から回復したことが分かっている。

世界は共通のものさしを失い、通貨のブロックに割れていった。イギリスは帝国の国々とポンドの圏を作り、関税で外を締め出した。各国は通貨の切り下げと関税で輸出を奪い合い、世界の貿易は縮んだ。
カール・ポランニーは、1944年の『大転換』で、この瞬間を19世紀文明の終わりに置いた(物語「『大転換』で読む歴史」)。19世紀の平和と繁栄を支えたのは、国々の力の釣り合い、金本位制、自己調整的な市場、自由主義の国家という四つの制度で、その要が金本位制だった、と彼は見た。市場に社会を従わせようとする理念が、社会の側の自己防衛の圧力に耐えられなくなった、という読み方になる。
そしてその後に、三つの答えがほぼ同時に出た。アメリカのニューディール、ソ連の計画経済、ドイツのファシズム。どれも、市場を社会や国家の側に従わせようとする試みだった、とポランニーは言う。

『大転換』が出たのと同じ1944年、連合国はブレトン・ウッズ会議で、ドルを金に結びつけ、各国の通貨をドルに結びつける新しい仕組みを作った。資本の移動を抑え、各国が国内の雇用を守る余地を残した、管理された金とのつながりだった。その仕組みも1971年、アメリカがドルと金の交換を停止して終わる。以後、通貨は金の裏づけを持たないまま、各国の中央銀行の信用だけで支えられている。