キング牧師
概要
非暴力で公民権運動を率いた。ガンディーの方法を、別の大陸で受け継ぐ。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(2)
モンゴメリー・バス・ボイコット1955年 · 指導ワシントン大行進AD1963年8月28日 · 演説本文
1929年1月15日、アメリカ南部ジョージア州のアトランタに生まれた。父はエベニーザー・バプテスト教会の牧師で、祖父もその教会の牧師だった。出生時の名はマイケルで、父が1934年にドイツを訪れたあと、宗教改革者マルティン・ルターにちなんで父子ともにマーティン・ルーサーと改めたとされる。

南部では、学校もバスも水飲み場も、白人用と黒人用に分けられていた。幼いころ仲良く遊んでいた白人の友だちの親から、もう一緒に遊ばせないと言われたことを、キングは後に人種隔離を意識した最初の経験として語っている。成績は良く、15歳で黒人の名門モアハウス大学に入った。北部の神学校を経て、ボストン大学で神学の博士号を取った。この間にインドのガンディーの非暴力の思想を学び、それが後の運動の方法になる。なお博士論文には、他人の文章を出典なしに使った部分が多くあったことが、1991年に大学の調査で認められている。
1953年にコレッタ・スコットと結婚し、翌年、アラバマ州モンゴメリーのデクスター街バプテスト教会の牧師になった。25歳だった。
1955年12月1日、モンゴメリーで、黒人女性のローザ・パークスが、バスで白人に席を譲るよう命じられて断り、逮捕された。黒人の指導者たちはバスの乗車拒否を呼びかけ、その運動の代表に、町に来てまだ日の浅い26歳のキングを選んだ。モンゴメリー・バス・ボイコットは381日続いた。黒人たちは歩き、車を出し合って通勤した。キングの家には爆弾が投げ込まれた。怒った支持者たちが家の前に集まったとき、キングは、武器を持っている人はそれを家に持ち帰ってほしい、憎しみには愛で応えなければならない、と語りかけて群衆を鎮めた。1956年、連邦最高裁がバスの人種隔離を違憲とし、ボイコットは勝利に終わった。

翌1957年、キングは南部の黒人教会の牧師たちと南部キリスト教指導者会議を作り、その代表になった。南部の黒人社会では、教会が人と資金と情報の集まる場所であり、それがそのまま運動の組織になった。1959年にはインドを訪れ、ガンディーの足跡をたどっている。
非暴力は、ただ我慢することではなかった。差別のある場所にあえて出向き、暴力を受けても手を出さず、その姿を世間に見せることで、隠れていた不正をあらわにする方法である。1963年、アラバマ州バーミングハムで、その方法が最も鮮やかに示された。キングはデモで逮捕され、獄中で、運動をもっと穏やかに、もっとゆっくり進めるべきだと説く白人の聖職者たちへの返事を書いた。「バーミングハムの獄中からの手紙」である。待てという言葉は、ほとんどいつも「決して」を意味してきた、正義の遅れは正義の否定である、とキングは書いた。釈放後、子どもや若者たちがデモに加わると、警察は消防ホースの放水と警察犬で彼らを襲った。その映像が全国に流れ、世論が動いた。
同じ年の8月28日、ワシントン大行進には25万人ほどが集まった。リンカーン記念堂の前で演説したキングは、用意した原稿から途中で離れ、「私には夢がある」と語り始めた。かつての奴隷の子孫とかつての奴隷所有者の子孫が、兄弟として同じテーブルにつく日が来るという夢を。同じ壇上にいた歌手のマヘリア・ジャクソンが「夢の話をして」と声をかけたのがきっかけだったと伝えられる。

翌1964年、人種による差別を禁じる公民権法が成立し、キングは35歳でノーベル平和賞を受けた。当時としては最年少の受賞者だった。1965年にはアラバマ州セルマで、黒人の投票の権利を求める行進が州警察に襲われ(セルマの橋)、その後の大行進を経て、同じ年に投票権法が成立した。
ここから、キングは発言の幅を広げた。法律で差別がなくなっても、北部の都市のスラムの貧しさは変わらない。1966年にはシカゴに移り住んで住宅の差別と闘い、白人の住民から石を投げられた。1967年4月にはニューヨークの教会で、ベトナム戦争をはっきりと批判した。自国の政府を、今日の世界で最大の暴力の担い手だと呼んだのである。ジョンソン政権との関係は冷え、新聞も、それまでの支持者の一部も離れていった。人種問題を超えて戦争と貧困を論じると、味方が減った。それでもキングは、人種を問わず貧しい人々を首都に集める「貧者の行進」を準備していた。

1968年春、テネシー州メンフィスで、黒人の清掃労働者たちが待遇の改善を求めてストライキをしていた。キングはその支援に駆けつけた。4月3日の夜の演説で、私は山の頂に登って約束の地を見た、私は皆さんと一緒にそこへ行けないかもしれない、と語った。翌4月4日の夕方、宿のロレイン・モーテルのバルコニーに出たところを狙撃され、まもなく死んだ。39歳だった。死の知らせを受けて、全米の100を超える都市で暴動が起きた。犯人としてジェームズ・アール・レイが逮捕され有罪になったが、単独犯だったのかどうかを疑う声は、遺族の一部を含めて今も残る。
生前、キングは政府から監視されていた。連邦捜査局(FBI)は長官フーヴァーのもとで、キングの電話を盗聴し、私生活の情報を集めた。1964年には差出人の名のない手紙を送りつけ、自ら命を絶つよう暗にほのめかしている。こうしたことは1970年代の議会の調査で明らかになった。

1983年、キングの誕生日にちなむ1月の第3月曜日が国の祝日と定められ、1986年から実施されている。いまでは、アメリカで個人の名を冠した数少ない祝日の一つである。非暴力でガンディーの方法を受け継ぎ、それを別の大陸の別の差別に用いたキングの運動は、その後世界各地の抗議運動の手本になった。ただ、晩年のキングが貧困と戦争に向けた批判の鋭さは、穏やかな「夢」の演説のイメージに隠れて、語られることが少ない。