ビキニ環礁の核実験
概要
住民は移住させられ、いまも帰れない。1954年の実験では日本の漁船も被曝した。
場所
11.60°N 165.40°E · マーシャル諸島
本文
1946年、アメリカは広島と長崎に原爆を落としてから1年もたたないうちに、核兵器の実験場を探していた(広島・長崎への原爆投下)。選ばれたのは、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁だった。日本の委任統治領だったこの島々は、戦争中にアメリカが占領していた。人の住む都市から遠く、船を並べる広い礁湖がある。
ビキニには167人が住んでいた。1946年2月、アメリカ海軍の軍政官が島を訪れ、教会の集まりのあとで住民に、この実験は人類の福祉と、すべての世界戦争を終わらせるためのものだと説明し、島を一時的に離れてほしいと頼んだ。首長のジュダは、すべては神の御手にある、と答えたと伝えられる。住民は東へ200キロほどの無人の環礁に移されたが、そこは食べ物が乏しく、人々は飢えに苦しんだ。その後も移住を重ね、最後は小さなキリ島に落ち着いた。キリ島には礁湖が無く、漁をして暮らしてきた人々の暮らしは大きく変わった。

1946年7月の最初の実験は、礁湖に古い軍艦など90隻ほどを並べ、その上と水中で原爆を爆発させるものだった。核兵器が艦隊にどれほどの被害を与えるかを見るためである。水中での爆発は、放射能を帯びた海水を高く巻き上げ、残った船を汚染した。
この最初の実験の4日後、パリで新しい水着が発表された。デザインしたルイ・レアールは、それに「ビキニ」という名を付けた(ビキニの水着)。世間を驚かせるという意味を込めたとされる。環礁の名は、核の実験より、水着の名として世界に広まった。

1954年3月1日、ビキニで水素爆弾の実験が行われた。コードネームは「ブラボー」。予測の2.5倍にあたる、広島の原爆のおよそ千倍の威力になった。風の読みも外れた。放射能を帯びた珊瑚の粉が、白い灰になって東の海と島々に降った。
そのとき、爆心から160キロほど東の海で、静岡県焼津港のマグロ漁船、第五福竜丸が操業していた(第五福竜丸)。乗組員23人は、空から降ってきた白い灰を浴びた。帰港したとき、みな火傷のような症状と体の不調を訴えていた。9月、無線長の久保山愛吉が亡くなった。

日本では、獲れたマグロが放射能で汚れているとして捨てられ、魚を買う人が減った。東京の杉並の主婦たちが始めた水爆実験反対の署名は全国に広がり、数千万人分が集まった。1955年には広島で原水爆禁止の世界大会が開かれた。前年の1954年11月に公開された映画『ゴジラ』は、水爆実験で目覚めた怪獣の物語だった。
被曝したのは日本の漁船だけではない。近くのロンゲラップ環礁やウトリック環礁の住民も灰を浴びた。ロンゲラップの人々は2日後に避難させられたが、のちに甲状腺の病気などに苦しんだ。島に戻ったあとも不安は消えず、1985年、住民は環境団体の船に頼んで、島を出て別の島へ移った。その船の名はレインボー・ウォリアー号で、2か月後にフランスの工作員に沈められることになる(ムルロアの核実験)。

ビキニでの実験は1958年まで続き、23回にのぼった。1960年代の終わり、アメリカは島は安全になったと発表し、一部の住民が帰った。だが1970年代、帰った人々の体から高い値の放射性物質が見つかり、1978年に再び島を離れることになった。住民と子孫はいまも、ほとんどがキリ島などで暮らしている。
ブラボー実験が世界に与えた衝撃は、核実験を規制する動きにつながった。1963年、米英ソは大気圏内や水中での核実験を禁じる条約を結んだ(部分的核実験禁止条約)。ビキニ環礁は2010年、核の時代の始まりを物語る場所として世界遺産に登録された。