ダンマーム7号井

概要
カリフォルニア・スタンダード石油が1933年に利権を買い、5年掘って何も出なかった。撤退を考えていた。7号井が1440メートルで、1日1500バレル。「繁栄の井戸」。イブン・サウードは1939年、最初のタンカーの栓を自分で開けた。世界最大の油田(ガワール、1948年)。アラムコ。1945年、ローズヴェルトが軍艦で王に会った。石油と安全保障。
場所
26.24°N 50.03°E · サウジアラビア
関わった人(1)
イブン・サウードAD1875年頃–AD1953年11月9日 · 栓を開けた本文
1930年代の初め、アラビア半島の大半を征服したイブン・サウード(1902年のイブン・サウードのリヤド奪還から30年がかりで国を作った)は、金に困っていた。国の大きな収入はメッカへの巡礼者が落とす金だったが、世界恐慌で巡礼者が減り、役人や部族への手当てにも事欠いた。1932年、王国はサウジアラビアと名を改めた。同じ年、ペルシア湾をはさんですぐ東のバーレーン島で、アメリカのカリフォルニア・スタンダード石油(ソーカル)の子会社が石油を掘り当てた。対岸のアラビア本土にも、同じ地層が続いているかもしれない。
イギリス系のイラク石油会社も利権を狙っていたが、王が求めたのは前払いの金、それも金貨だった。1933年5月29日、王の財務を預かるアブドゥッラー・スレイマンとソーカルの代表の間で利権協定が結ばれた。期間は60年、東部の広大な土地で石油を探して掘る権利を与える代わりに、会社は金で3万5000ポンドを前払いし、毎年の地代と、石油が出たときの利権料を払う。王国の側の仲立ちをしたのは、王の相談役になっていたイギリス人のフィルビーである。会社はこの事業のためにカリフォルニア・アラビアン・スタンダード石油(カソック)を作った。

1933年の秋、地質学者たちがペルシア湾岸のジュバイルに上陸した。彼らはアラブの服を着て、ラクダと車で砂漠を調べ、ダンマームの近くに、地下の地層が丸く盛り上がったドーム状の構造を見つけた。現地の人がジャバル・ダンマームと呼ぶ小高い丘のあたりである。バーレーンで油が出たのと同じ形だった。1935年4月、ここでダンマーム1号井の掘削が始まった。
結果は思わしくなかった。1号井では油とガスの兆しはあったものの、量が足りなかった。2号井は一時はよく出たが、すぐに水が混じって衰えた。3号井から6号井も、乾いているか、わずかに出るか、ガスばかりだった。2年以上たっても、商売になる井戸は一本もなかった。1936年には、テキサス石油(のちのテキサコ)が事業の半分を引き受けて費用を分け合ったが、サンフランシスコの本社では、アラビアから手を引くべきだという声が強まっていった。現地の主任地質学者マックス・スタイネケは、もっと深く掘れば、バーレーンより下の地層に油があるはずだと主張した。

ダンマーム7号井は、1936年12月7日に掘り始められた。これまでの井戸より深く掘る計画だった。作業は難航した。ドリルの先が折れて穴の底に残り、坑壁が崩れ、掘削のたびに事故と遅れが続いた。夏の砂漠の暑さの中で、アメリカ人の技術者とサウジアラビアの労働者が交代で掘り続けた。1年以上たっても、何も出なかった。
1938年3月4日、深さ約1440メートルに達したところで、井戸は1日約1585バレルの原油を噴き上げた。ジュラ紀の石灰岩の地層で、のちに「アラブ層」と呼ばれる。3週間後には1日3800バレルを超え、量が安定していることが分かった。疑う本社を説得したのは、数字だった。のちにこの井戸は「繁栄の井戸」と呼ばれる。7号井は1982年に役目を終えるまで44年にわたって原油を出し続け、その量は3200万バレルに達した。

1939年5月1日、イブン・サウードは湾岸のラス・タンヌーラの積み出し港を訪れ、最初のタンカーに原油を送るバルブを自らの手で開けた。王の一行は家族、家臣、護衛を合わせて2000人ほどで、400台の車を連ね、砂漠に何百ものテントを張ったと伝えられる。同じ年の9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、石油の開発はしばらく足踏みしたが、戦争は石油が国の力そのものだと世界に教えた。
1944年、会社の名はアラビアン・アメリカン石油会社(アラムコ)に改められた。1948年にはのちのエクソンとモービルが加わり、アメリカの大手4社の合弁になった。同じ1948年、内陸で見つかったガワール油田は、長さ約280キロに及ぶ世界最大の油田だった。サウジアラビアの石油の生産は急速に増え、国家の収入のほとんどは石油から来るようになった。1950年、王国は利益を会社と折半する取り決めを勝ち取った。王国は1970年代に会社の持ち分を少しずつ買い取り、1980年には全株を手に入れた。いまのサウジ・アラムコである。1960年、サウジアラビアはベネズエラなどとOPECの結成を作り、産油国の側から価格を動かす力を持つようになる。
石油は、アメリカとこの王国を結びつけた。1945年2月、ヤルタ会談からの帰り道のフランクリン・ローズヴェルトは、スエズ運河のグレート・ビター湖に停泊した巡洋艦クインシーで、イブン・サウードと会った。王は駆逐艦で乗り付け、甲板に天幕を張り、連れてきた羊を料理させたと伝えられる。車椅子の大統領と、戦傷で脚の不自由な王は打ち解け、大統領は予備の車椅子を王に贈った。会談では、パレスチナにユダヤ人の国を作ることについて大統領が意見を求め、王は強く反対した。大統領は、アラブの人々に敵対する行動はとらないと約束し、その2か月後に死んだ。アメリカは石油の安定した供給を、王国は自らの安全の後ろ盾を得る。この取引はその後の両国の関係の基調になったと言われる。

ダーランはアラムコの本社の町として育ち、砂漠の中にアメリカ風の住宅地と学校が並んだ。7号井の跡はいまも残り、記念の場所になっている。サウジアラビアが持つ確認済みの石油の埋蔵量は、世界全体の6分の1ほどとされる。掘っても出ない井戸を6本重ね、撤退の寸前で7本目を掘ったことが、20世紀の中東と世界のエネルギーの地図を描き変えた。