ベルリンの壁の崩壊
概要
28年間ドイツを分けた壁が一夜で開いた。冷戦の終わりが目に見える形になる。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
関わった人(1)
ニキータ・フルシチョフAD1894年4月15日–AD1971年9月11日 · 建てさせた本文
第二次世界大戦の後、敗れたドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国に分けて占領された。首都ベルリンはソ連の占領地域の中にあったが、ベルリンそのものも4か国で分けられた。1948年、ソ連は西側の占領地区への陸の道を断つベルリン封鎖を行ったが、西側は飛行機で物資を運び続けて対抗した。1949年、ドイツは西のドイツ連邦共和国と東のドイツ民主共和国に分かれた。
東ドイツからは、多くの人が西へ逃れた。特に、東西のベルリンの境はまだ自由に行き来できたため、そこが抜け道になった。1949年から1961年までに、約250万人が東から西へ移ったとされる。医師や技術者、若い働き手が多く、東ドイツの経済にとって大きな痛手だった。

1961年8月13日の未明、東ドイツは西ベルリンの周りを有刺鉄線で囲み始めた。ニキータ・フルシチョフの承認のもとで行われたベルリンの壁の建設である。有刺鉄線はすぐにコンクリートの壁に置き換えられ、やがて二重の壁のあいだに、見張りの塔と照明と地雷と犬を配した「死の帯」が作られた。西ベルリンを囲む壁の長さは約155キロに及んだ。壁を越えようとして殺された人は、少なくとも140人いるとされる。
1963年、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは西ベルリンを訪れ、自由な人はみなベルリン市民だと演説した。1987年には大統領ロナルド・レーガンが、ブランデンブルク門の前で、ソ連の指導者に向けて、この壁を壊しなさいと呼びかけた。それでも、壁がすぐに消えると考えた人はほとんどいなかった。

壁の向こう側では、変化が始まっていた。ソ連では1985年にゴルバチョフが指導者になり、改革と情報公開を進めた。東ヨーロッパの国々に、それまでのように軍を送って体制を守らせることはしないという態度も示した。ポーランドでは連帯の結成以来の自主労組「連帯」が力を取り戻し、1989年6月の選挙で大勝した。
1989年5月、ハンガリーはオーストリアとの国境の鉄条網を取り払い始めた。8月の汎ヨーロッパ・ピクニックでは、数百人の東ドイツ人が国境を越えて西へ逃れた。9月、ハンガリーが東ドイツ人の出国を認めると、数万人がハンガリーとオーストリアを経由して西ドイツへ向かった。プラハの西ドイツ大使館にも、出国を求める東ドイツの人々が押し寄せた。

国内でも抗議が広がった。ライプツィヒでは毎週月曜日、教会での祈りの後にデモが行われ、10月9日には7万人が集まった。当局は武力で押さえることを見送った。10月18日、長く権力を握ってきたホーネッカーが退いた。11月4日には東ベルリンで、数十万人が集まって言論と旅行の自由を求めた。
追い詰められた東ドイツの指導部は、国民の旅行の規則を緩めることにした。11月9日の夕方、党の報道担当のシャボウスキーが、テレビで中継される記者会見の終わり近くで、この新しい規則を読み上げた。シャボウスキーは内容を十分に説明されていなかった。いつから有効になるのかと記者に聞かれると、手元の紙を見ながら、私の知る限りでは、ただちに、遅滞なく、と答えた。実際には、翌日から旅券の申請を受け付けるという手順を想定していたとされる。

西ドイツのテレビがこれを国境が開いたと伝え、東ベルリンの人々はそれを見て、壁の検問所へ向かった。夜が更けるにつれて、ボルンホルム通りの検問所には数千人が集まった。現場の警備の責任者たちには、何の指示も届いていなかった。上に電話をしても、はっきりした命令は返ってこなかった。群衆の圧力が高まる中、この検問所の旅券審査の責任者だったイェーガー中佐は、午後11時半ごろ、門を開けるよう命じた。ほかの検問所も、次々に開いた。
一発の銃声もなかった。人々は西ベルリンになだれ込み、見知らぬ人と抱き合い、ブランデンブルク門の前の壁の上に登って踊った。その後、何日にもわたって、人々はハンマーやのみで壁を削り取り、記念に持ち帰った。
壁が開いた後、変化はさらに速く進んだ。チェコスロヴァキアではビロード革命が起き、12月にはマルタ会談で米ソの首脳が冷戦の終わりを語った。1990年10月3日、ドイツの再統一が実現した。11月9日は、1918年に共和国が宣言された日であり、1938年に水晶の夜が起きた日でもあった。統一を祝う国の記念日には、この日ではなく10月3日が選ばれている。1991年にはソ連の解体が続く。
28年間ドイツを分けた壁は、誰かの決断ではなく、誰も止めなかったことで開いた。ベルリンの街には、いまも壁の一部が残され、かつての壁の線は道路に埋め込まれた石の列でたどることができる。東ドイツの秘密警察シュタージが市民を監視して作った膨大な記録は、統一の後に公開され、多くの人が、家族や友人に密告されていたことを知った。壁の向こうの暮らしの実態が明らかになったのは、壁が消えた後だった。