フィデル・カストロ
概要
アメリカの目の前で革命を成功させた。冷戦の最前線が西半球に生まれる。
関わったできごと(2)
キューバ革命AD1959年1月1日 · 指導ピッグス湾事件AD1961年4月17日 · 退けた本文
1926年8月13日、キューバ東部のビランに生まれた。父アンヘルはスペインのガリシア地方から渡ってきた移民で、砂糖きびの農園を広げて大地主になった人物である。母リナは父の家で働いていた女性で、フィデルが生まれたとき二人はまだ結婚していなかった。裕福だが、正式な家の子ではないという立場で育ったことになる。ハバナのイエズス会の名門校で学び、スポーツ万能で、負けず嫌いな生徒だった。

キューバは1902年にスペインから独立したが、その後もアメリカの強い影響の下にあった。砂糖産業や電力、鉄道の多くをアメリカ資本が握り、ハバナはアメリカ人向けの賭博場と歓楽街で知られていた。1945年、ハバナ大学の法学部に入ったカストロは、銃を持った学生の派閥が争う学生政治の中で頭角を現した。1948年には、コロンビアの首都ボゴタで起きた大暴動に居合わせている。
大学を出て弁護士になり、議会選挙に立候補しようとしていた1952年、元大統領の軍人バティスタがクーデターで政権を奪い、選挙は取りやめになった。合法の道を断たれたカストロは、武力で独裁を倒すことを決めた。

1953年7月26日、カストロは160人ほどの若者を率いて、東部の都市サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲った。計画はすぐに崩れ、襲撃は失敗した。多くの仲間が捕らえられ、拷問されて殺された。カストロも捕まり、裁判にかけられた。法廷で自ら弁論に立ち、独裁の不正と国の貧しさを延々と論じ、最後を「私を断罪せよ。それはかまわない。歴史は私に無罪を宣告するだろう」と結んだ。この弁論は後に冊子として広まり、彼の名を国中に知らせた。
禁錮15年の判決を受けたが、1955年に恩赦で釈放され、メキシコへ亡命した。そこで、アルゼンチン出身の若い医師チェ・ゲバラと出会う。二人は一晩語り明かし、ゲバラはカストロの遠征に加わることを決めた。

1956年11月、定員を大きく超える82人が、グランマ号という古いヨットに乗り込んでメキシコを出た。嵐と故障で予定より遅れ、12月2日、キューバ東部の沼地に打ち上げられるように上陸した。数日後に政府軍の待ち伏せを受け、ほとんどが殺されるか捕らえられた。シエラ・マエストラの山中にたどり着いて再び集まれたのは、20人ほどだったとされる。
だが山中のゲリラは、そこから少しずつ育っていった。農民を味方につけ、政府軍の小さな部隊を襲って武器を奪った。1957年にはアメリカの新聞記者が山中でカストロにインタビューし、反乱軍が健在であることを世界に伝えた。都市でも地下組織がバティスタへの抵抗を続けた。1958年、政府軍の大攻勢をしのいだ反乱軍は山を下り、年末にゲバラの部隊が中部の要地サンタ・クララを落とした。1959年1月1日、バティスタは国外へ逃げた(キューバ革命)。カストロは32歳だった。

革命政府の首相となったカストロは、すぐに大きな改革に手をつけた。大農園を接収して農民に分け、家賃や電気料金を引き下げた。旧政権の軍人や警官を即決の裁判で裁き、数百人を銃殺した。当初、カストロは自分を共産主義者だとは言っていなかった。だが、接収した土地にはアメリカ企業のものが多く、アメリカとの関係は急速に悪化した。1960年、アメリカがキューバの砂糖の輸入を大幅に減らすと、ソ連がその砂糖を買い取った。キューバはアメリカ系の企業を次々に国有化し、アメリカは経済の封鎖で応じた。
1961年4月、アメリカの中央情報局が訓練した亡命キューバ人の部隊1400人あまりが、南岸のピッグス湾に上陸した。カストロ自ら指揮をとった軍と民兵が、3日で彼らを打ち破った(ピッグス湾事件)。その直前、カストロは初めて、この革命は社会主義の革命だと宣言した。翌1962年、ソ連のニキータ・フルシチョフがキューバに核ミサイルを持ち込み、世界は核戦争の瀬戸際に立った(キューバ危機)。ソ連はアメリカのジョン・F・ケネディと取引してミサイルを引き揚げたが、その交渉にキューバは加えられず、カストロは激怒した。

革命政府は、教育と医療を無料にした。1961年には若者たちを地方に送り込んで読み書きを教える運動を行い、識字率を一気に引き上げた。医師を大量に育てて国中に診療所を置き、乳児の死亡率はやがて中南米で最も低い水準になった。キューバの医師たちは、いまも世界各地へ派遣されている。
その一方で、選挙で政権を争う政党は認められず、新聞やテレビは国の管理下に置かれた。反対する者や同性愛者が収容所に送られた時期もある。何十万もの人々が国を去ってアメリカへ渡った。1980年には、港を開いて出国を認めた数か月のうちに、12万人を超える人が小舟でフロリダへ向かった。

カストロは小さな島国の指導者として、大国のように振る舞った。1975年からはアフリカのアンゴラ(ポルトガル領の独立)に大軍を送り、南アフリカに支えられた勢力と戦わせた。演説は長く、ときに何時間にも及んだ。アメリカの中央情報局が毒入りの葉巻や爆発する貝殻まで考えて彼の暗殺を企てたことは、アメリカ議会の調査でも明らかになっている。キューバ側は、その計画が600件を超えたと主張している。
1991年にソ連が崩れると、援助と貿易の相手を失ったキューバの経済は崩れ落ちた。食料も燃料も足りない「特別期間」と呼ばれる苦しい年月が続いた。2006年、カストロは腸の病で倒れ、権力を弟のラウルに委ねた。2008年に正式に国家評議会議長を退いたとき、権力の座にあった期間は49年に及んでいた。

2016年11月25日、ハバナで亡くなった。90歳。その前年には、アメリカとキューバが54年ぶりに国交を回復していた。遺灰はサンティアゴ・デ・クーバの墓地に、独立の父ホセ・マルティの墓の近くに納められた。生前の遺志により、彼の名を通りや広場に付けることも、像を建てることも禁じられた。小さな島を半世紀にわたって冷戦の最前線にした男は、解放者とも独裁者とも呼ばれ、評価はいまも割れている。