概要
1989年8月19日、ハンガリーとオーストリアの国境の町ショプロンの近くで、両国の市民が国境の門を三時間だけ開けて交流する「ピクニック」が開かれた。ハンガリーの改革派の政治家と、ハプスブルク家の末裔オットー・フォン・ハプスブルクが後ろ盾になっていた。噂を聞いて集まっていた東ドイツの人々が門に押し寄せ、国境の警備兵は撃たずに見送った。六百人を超える人が西へ逃れた。三週間後、ハンガリーは東ドイツの人々に国境を開き、11月にはベルリンの壁が崩れる。
場所
47.68°N 16.58°E · ハンガリー
本文
1989年、ハンガリーの共産党の中では改革派が力を持ち、複数の政党を認める方向へ進んでいた。5月2日、ハンガリー政府は、オーストリアとの国境に張られた鉄条網の撤去を始めた。維持の費用がかさむうえ、ハンガリー人が西へ旅行することはすでに許されていたからである。ただし、東ドイツの人々が西へ行くことは、東ドイツとの取り決めで、なお認められていなかった。
その夏、東ドイツの人々は休暇を装って、ハンガリーに大勢集まっていた。「鉄のカーテン」(「鉄のカーテン」演説)に穴が開いたという噂が広まっていたのである。ブダペストの西ドイツ大使館には、帰国を拒む人々が押し寄せた。
8月19日、国境の町ショプロンの近くの草原で、ハンガリーの民主化の団体が、国境の古い門を三時間だけ開けて、両国の人々がピクニックを楽しむ催しを開いた。後ろ盾は、改革派の国務大臣ポジュガイ・イムレと、欧州議会の議員で、ハプスブルク家の最後の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルクだった。催しのことを書いたビラは、東ドイツの人々の間にも配られていた。
午後、門が開くと、待っていた東ドイツの人々が押し寄せ、門を押し開けてオーストリアへ走った。国境の警備の責任者は、撃てという命令を受けておらず、撃たないことを自ら決めたという。六百人を超える人が西へ逃れた。ソ連は動かなかった。9月11日、ハンガリーは東ドイツの人々に国境を正式に開き、数万人が西ドイツへ向かった。東ドイツの体制は、足もとから崩れはじめ、11月9日のベルリンの壁の崩壊に至る。