人物

ジョゼフ・マッカーシー

Joseph McCarthy
AD1908年11月14日 – AD1957年5月2日(享年48)
アメリカ合衆国重要度 3

概要

ウィスコンシンの農家。判事。海兵隊の「テイルガンナー・ジョー」。1946年、上院。1950年、リスト。4年、アメリカを怯えさせた。1954年、上院が67対22で非難。3年後、48歳、アルコールで死んだ。「マッカーシズム」は彼の名の語として残った。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

マッカーシズムAD1950年2月9日 · 煽った

本文

ジョゼフ・レイモンド・マッカーシーは、1950年代の初めにアメリカの政府と社会を「共産主義者狩り」に巻き込んだ上院議員である。その名は「マッカーシズム」という言葉になり、根拠の薄い告発で人を社会から追い出すやり方を指す語として、いまも世界中で使われている(マッカーシズム)。

マッカーシズムに関わる図版:Anticommunist Literature 1950s
マッカーシズムWikimedia Commons Anticommunist_Literature_1950s.tiff : Myron Coureval Fagan derivative work: Comte0 ( talk ) · Public domain

1908年11月14日、ウィスコンシン州グランド・シュートの農家に生まれた。アイルランド系のカトリックの家で、きょうだいの多い家庭だった。14歳で学校をやめ、養鶏で身を立てようとしたが、病気で鶏を失ってうまくいかなかった。20歳で高校に入り直し、4年の課程を1年で終えたという。マーケット大学で法律を学び、弁護士になった。1939年、30歳で州の巡回判事の選挙に勝った。相手の現職判事の年齢を実際より上に言いふらしたことが勝因の一つとされ、のちの彼のやり方の片鱗がすでに見える。

1942年、判事のまま海兵隊に志願し、太平洋のソロモン諸島で急降下爆撃機の部隊の情報将校を務めた。地上勤務だったが、ときどき機の後部銃座に乗せてもらい、のちに「テイルガンナー(後部銃手)・ジョー」を名乗って選挙を戦った。乗った回数は記録では十数回だが、本人は32回と言った。足のけがを戦傷と称したが、実際には船の上での赤道越えの祝いの最中に階段から落ちて折ったものだった。

ジョセフ・マッカーシーの肖像
ジョセフ・マッカーシーの肖像Wikimedia Commons United Press · Public domain

1946年、共和党の上院議員の予備選挙で、ウィスコンシンの名門政治家ロバート・ラフォレット・ジュニアを僅差で破り、本選挙にも勝って上院に入った。初めの数年は目立たず、砂糖の配給制の撤廃に動いて「ペプシコーラ・キッド」と陰口をきかれたり、大戦末期にドイツの親衛隊が米兵捕虜を殺したマルメディ事件の調査で、ドイツ兵の側に立って取り調べの不当を訴えたりした。再選が危ぶまれていた。

転機は1950年2月9日、ウェストヴァージニア州ホイーリングの共和党の女性の会での演説だった。「私の手元に、国務省で働く共産党員205人の名簿がある」。演説の録音は残っておらず、彼が実際に何人と言ったかは今も争われていて、数日後には57人、上院では81件と数字が変わった。それでも時機が彼を押し上げた。前年にソ連が原爆の実験に成功し、中華人民共和国の成立で中国が共産党の手に渡り、元国務省高官アルジャー・ヒスがソ連のスパイの疑いで偽証罪の有罪判決を受けたばかりだった。6月には朝鮮戦争が始まる。政府の中に裏切り者がいるという話を、多くの人が信じたがっていた。

中華人民共和国の成立に関わる図版:Mao Proclaiming New China
中華人民共和国の成立Wikimedia Commons Orihara1 · Public domain

上院の調査委員会は、彼の告発を「詐欺といかさま」と結論した。だがマッカーシーはひるまず、中国研究者オーウェン・ラティモアを「ソ連の最高のスパイ」と呼び、委員長だったメリーランド州のタイディングス上院議員を、共産党の指導者と並んで写った合成写真まで使って攻撃し、1950年11月の選挙で落選させた。この一件で、上院議員たちは彼に逆らうのを恐れるようになった。1951年には、元陸軍参謀総長のジョージ・マーシャルさえ、共産主義の陰謀に加担したと議場で非難している。ハリー・トルーマン大統領の民主党政権は「共産主義に甘い」と攻撃され、1952年に共和党が政権を取ると、マッカーシーも再選された。

1953年、彼は上院の常設調査小委員会の委員長になり、若い弁護士ロイ・コーンを首席法律顧問に据えた。ケネディ家と親しかったため、ジョン・F・ケネディの弟ロバートも一時スタッフに加わっている。コーンと友人デイヴィッド・シャインはヨーロッパのアメリカ文化センターを回り、図書館から「好ましくない」本を撤去させた。公務員、教師、映画人、学者が、証拠を示されないまま名指しされ、職を失った。ただし、名簿で人を追う動きはマッカーシー一人のものではなく、政府の忠誠審査や下院の非米活動委員会も同じころ盛んに動いていた。マッカーシーはその最も声の大きな顔だった。

M・C・スミス上院議員名指しはしなかったもののマッカーシーの「赤狩り」を批判する「良心の宣言」を発表した
M・C・スミス上院議員名指しはしなかったもののマッカーシーの「赤狩り」を批判する「良心の宣言」を発表したWikimedia Commons U.S. Senate Historical Office · Public domain

行き詰まりは陸軍との衝突から来た。シャインが徴兵されると、コーンは軍に特別扱いを迫った。陸軍がこれを暴露し、マッカーシーは陸軍に共産主義者がいると反撃した。1954年4月から6月まで続いた陸軍・マッカーシー公聴会はテレビで全国に中継され、乱暴に話を遮り、他人を中傷する彼の姿が、何百万もの家庭の居間に映った。それに先立つ3月には、報道番組「シー・イット・ナウ」でエドワード・マローが彼の発言と矛盾を淡々と並べて見せていた。6月9日、陸軍側の弁護士ジョゼフ・ウェルチは、マッカーシーが自分の事務所の若い弁護士の昔の所属をあげつらったとき、「あなたには品位というものがないのか」と言い返した。傍聴席から拍手が起きた。

1954年12月2日、上院は67対22でマッカーシーを譴責した。ケネディ上院議員は腰の手術で入院しており、態度を示さなかった。議員の地位は失わなかったが、新聞もテレビも彼を取り上げなくなり、彼は酒に溺れた。1957年5月2日、メリーランド州ベセスダの海軍病院で、48歳で死んだ。死因は急性肝炎とされ、長年の大量の飲酒が原因とみられている。故郷に近いアップルトンに葬られた。1953年に結婚した妻ジーンとのあいだに子は無く、晩年に女の子を養子に迎えていた。

マッカーシーとコーン
マッカーシーとコーンWikimedia Commons United Press International telephoto · Public domain

1995年、アメリカ政府はソ連の暗号電報を解読した記録(ヴェノナ文書)を公開した。それによって、1940年代のアメリカ政府の中にソ連のスパイが実際に何人もいたことが確かめられた(ローゼンバーグ夫妻の処刑)。しかしその多くはマッカーシーが登場する前に辞めたり調べられたりしていて、彼が名指しした人々のうち新たにスパイと証明された人は見当たらないというのが、多くの研究者の見方である。実在した危険を、証拠を示さない告発と恐怖をあおる手段に変えたこと、そしてそれに周りが4年にわたって逆らえなかったことが、彼の名を悪名として残した。彼の側近だったロイ・コーンは、のちにニューヨークで弁護士として活動し、若いころのドナルド・トランプに助言を与えたことでも知られる。冷戦全体の流れは、物語「物語「冷戦」」にある。

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