中華人民共和国の成立
概要
内戦に勝った共産党が建国した。東アジアの構図が塗り替わる。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
関わった人(3)
周恩来AD1898年3月5日–AD1976年1月8日 · 初代首相蒋介石AD1887年10月31日–AD1975年4月5日 · 敗れて台湾へ毛沢東AD1893年12月26日–AD1976年9月9日 · 当人本文
1949年10月1日の午後、北京の天安門の楼上で、毛沢東が中華人民共和国中央人民政府の成立を宣言した。広場には30万の群衆が集まったとされる。だがそこに至るまでには、20年を超える内戦と、8年に及ぶ日本との戦争があった。
中国共産党は1921年に生まれ、一時は国民党と手を結んだ。だが1927年、国民党の蒋介石が上海で共産党員を弾圧すると、両党は敵になる。国民党軍に追われた共産党は、1934年から1年をかけて中国の西部を大きく迂回し、北西部の延安にたどり着いた(長征)。この間に毛沢東が党の主導権を握る。1936年の西安事件をきっかけに、国共は再び手を結び、日本との戦争(日中戦争)を戦った。

もっとも、この協力は形だけのところが大きかった。日本と正面で戦った主力は国民党軍で、大きな損害を出した。共産党は日本軍の後方の農村に入り込み、ゲリラ戦を続けながら、党員と兵と支配地域を大きく増やした。日中戦争が始まった頃に数万だった共産党の軍は、終戦時には百万前後に膨らんでいたとされる。
1945年8月に日本が降伏すると、両党は重慶で会談し、内戦を避けて協力することにいったんは合意した。アメリカもマーシャル将軍を送って調停を試みた。だが合意は守られず、1946年の夏には全面的な内戦になる。

初期は国民党が優勢だった。兵力はおよそ3対1から4対1で、アメリカの援助による装備も上回っている。1947年3月には共産党の本拠地延安まで落とした。毛沢東らは延安を捨てて移動しながら指揮を続けた。
逆転した理由としてよく挙げられるのが、土地改革である。共産党は支配した地域で地主の土地を取り上げ、農民に分け与えた。土地を得た農民は、それを守るために兵となり、食料や運搬の人手を出した。地主に対する処刑や暴力も伴い、多くの命が失われたことも記録されている。

土地改革は建国の後、1950年から全国で進められた。各地の村で集会が開かれ、地主が人々の前で糾弾された。この過程で殺された人の数は、少なく見積もって数十万、多い推計では二百万を超え、研究者の間でも幅が大きい。
国民党の側は、腐敗とインフレで支持を失った。戦費をまかなうために紙幣を刷り続け、物価は手がつけられないほど上がった。1948年に発行した新しい紙幣(金円券)も、1年足らずで紙くず同然になる。都市の中間層や学生の心も、国民党から離れていった。

1948年の秋から翌年の初めにかけて、共産党は東北の遼瀋、華東の淮海、華北の平津の三つの大きな戦いで、国民党軍の主力を次々に破った。国民党の部隊の中には、まるごと寝返るものも多かった。1949年1月、北平(北京)は戦わずに明け渡され、4月には共産党軍が長江を渡って国民政府の首都南京に入った。
9月、北平で人民政治協商会議が開かれ、新しい国の名、首都を北京とすること、国旗の五星紅旗、国歌などが決められた。毛沢東はその開会の演説で「中国人民はこのときから立ち上がった」と述べた。この言葉は10月1日の宣言のものと混同されることが多いが、実際は9月21日の演説である。初代の首相(政務院総理)には周恩来が就き、外相を兼ねた。

国民党は12月、政府を台湾の台北に移した。蒋介石はそこで中華民国を名乗り続け、大陸の奪回を掲げた。台湾海峡を挟んで二つの政府が、それぞれ自分こそが中国の正統だと主張する状態が、ここから始まる。
台湾ではその2年前の1947年、国民党の役人の腐敗に対する住民の抗議が軍に鎮圧され、多くの人が殺された(二・二八事件)。大陸から逃れてきた国民党は1949年に戒厳令を敷き、これは1987年まで38年にわたって続くことになる(台湾の戒厳令解除)。
新しい国は、まずソ連と結んだ。1950年2月、毛沢東はモスクワで中ソ友好同盟相互援助条約に調印する。同じ年の10月、中国は朝鮮戦争に兵を送り、アメリカと直接戦った。これによってアメリカは台湾の防衛に乗り出し、台湾海峡の分断が固まった。

その後の中国は、大躍進や文化大革命で大きな犠牲を払い、1970年代末からは改革開放で経済の道を大きく変えた。国連の中国の代表権が台湾から北京に移ったのは1971年である。台湾との関係は、いまも定まっていない。東アジアの構図の骨組みは、この年に決まった。