「離散家族を探します」
概要
朝鮮戦争の休戦から三十年、韓国の放送局KBSは、戦争で生き別れた家族を探す番組を一晩だけ生放送するつもりだった。申し込みの電話が鳴りやまず、局の前の広場には、探している人の名前と特徴を書いた紙を持つ人々が集まり、壁も地面も紙で埋まった。放送は延長を重ね、11月14日まで百三十八日、四百五十三時間に及んだ。画面に映った人と、テレビの前の人が、互いの顔や幼いころの話で確かめ合い、一万百八十九の家族が再会した。北に残された家族は、この番組では探せなかった。
場所
37.52°N 126.92°E · 大韓民国・ソウル特別市
本文
1950年6月に始まった朝鮮戦争では、戦線が朝鮮半島を南へ北へと何度も動いた。北の軍が釜山の近くまで押し寄せ、国連軍が鴨緑江の近くまで押し返し、中国の参戦でまた南へ下がる。そのたびに人々は家を捨てて逃げた。北から南へ下る避難の列の中で、つないでいた手が離れる。「あとで、あの町で会おう」と言って別れた家族が、そのまま会えなくなった。孤児院に預けられた子どももいれば、名前も故郷も覚えていないほど幼かった子どももいた。
1953年7月、休戦協定が結ばれ(朝鮮戦争の休戦)、半島を横切る線が引かれた。北に残った家族とは、手紙一通やり取りできない。それだけではない。南の中でも、散り散りになった家族の多くが、互いの居場所を知らないまま暮らしていた。役所の記録は戦争で焼け、名前を変えた人も、養子に出された子もいた。探したくても、探す手立てがなかった。

休戦から三十年の1983年6月30日の夜、韓国の公共放送、韓国放送公社は「離散家族を探します」という特別番組を生放送で始めた。もともとは一晩だけの短い特番の予定だった。やり方は単純である。家族を探している人がスタジオに来て、板に名前を書いて掲げる。別れた場所と年、覚えている家族の特徴も書く。カメラがそれを映し、テレビの前で「それは自分の家族だ」と思った人が電話をかける。
電話は鳴りやまなかった。放送は予定の時間を過ぎても続き、翌日も延長された。通常の番組を取りやめて、昼も夜も放送が続いた。ソウル・汝矣島の放送局の建物の前には、全国から人々が集まってきた。手に手に、探している家族の名前と特徴を書いた紙を持っている。紙は建物の壁に、柱に、地面に貼られ、やがて広場一面が紙で埋まった。夜になっても人は帰らず、紙の前で眠る人もいた。

画面の中の人と、画面の外の人が、スタジオで向かい合う。三十年たっていて、顔では分からない。話で確かめるのである。生まれた村の井戸がどこにあったか。母親の口癖は何だったか。幼いころのあだ名。脚のどこに傷があったか。答えが合うと、二人は抱き合って泣き崩れる。それが生放送で全国に映り、テレビの前の人々も泣いた。視聴率は、高いときには七割を超えたと伝えられる。
放送は11月14日まで、百三十八日、のべ四百五十三時間四十五分に及んだ。申し込みは十万件を超え、そのうち五万件あまりが画面に映った。再会できた家族は一万百八十九組である。一つの番組がこれほど長く、これほど多くの人の人生に直接関わった例はほかにない。

この番組で探せなかったのは、北に残された家族である。電話は北にはつながらない。しかし番組が大きな反響を呼んだことで、南北の間で離散家族の再会を求める声が一気に強まった。1985年9月、南北の故郷訪問団が互いにソウルと平壌を訪れ、分断後はじめて、ごく少数の家族が再会した。その後も再会の行事は途切れ途切れに行われてきたが、その間に、申し込んだまま会えずに亡くなる人が年ごとに増えている。
江戸の町には、迷子を探す人と迷子を見つけた人が紙を貼り合う石の柱があった(迷子しるべ石)。片側に「たづぬる方」、もう片側に「志らする方」と刻まれている。百二十六年後、同じことがテレビを通じて国じゅうで同時に起きた。テレビは一方的に流すだけの道具だと思われていたが、この番組では、見ている人が電話で画面の中に入ってきた。探す人と知らせる人が、同じ時間に同じものを見ていることが、再会の条件だった。
番組の録画テープ、申し込みの書類、スタジオで使われた紙などは、2015年、ユネスコの「世界の記憶」に登録された。戦争が何を引き裂いたのかを、一人ひとりの名前を書いた紙として残している。