ベルリンの壁の建設
概要
一夜で有刺鉄線が張られ、街と家族が分断された。逃げる人を止めるために作られた壁だった。
場所
52.52°N 13.40°E · ドイツ
本文
第二次世界大戦に敗れたドイツは、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4か国に分けて占領された。首都ベルリンはソ連の占領地域のただ中にあったが、ここも4つに分けられた。やがて米英仏の占領地区はまとまって西ベルリンとなり、ソ連の占領地域に浮かぶ西側の島になった。1948年、ソ連は西ベルリンへの陸の道を断ったが、西側は1年近く空から食糧と石炭を運び続けて耐えた(ベルリン封鎖)。1949年、西にドイツ連邦共和国、東にドイツ民主共和国が生まれた。
東ドイツは社会主義の国づくりを進めた。工場は国のものになり、農地は集団化され、秘密警察が人々を見張った。暮らしは西ドイツほど豊かにならず、西では戦後の「経済の奇跡」が始まっていた。東ドイツから西へ逃げる人が止まらなかった。

1952年、東ドイツは西ドイツとの長い国境を、柵と監視塔で封鎖した。だが、ベルリンだけは抜け道として残った。東ベルリンの住民は、地下鉄や電車に乗って西ベルリンへ行き、そのまま西ドイツへ飛行機で渡ることができた。1949年から1961年までに西へ移った人は、250万人とも300万人ともいわれる。人口の6分の1ほどになる。
しかも、若く、技能を持つ人が多い。医師、技術者、熟練工、教師。国が金をかけて育てた人材が、卒業するとすぐに西へ移っていく。1961年に入ると流出はさらに増え、夏には1日に数千人が西ベルリンの受け入れ施設に駆け込んだ。

放置すれば、国が成り立たない。1961年6月、東ドイツの指導者ウルブリヒトは記者会見で、壁を作るつもりは誰にもない、と述べた。誰も壁のことなど尋ねていなかった。この言葉はのちに、壁の計画がすでにあったことを示すものとして記憶されることになる。同じ月、ウィーンでニキータ・フルシチョフとジョン・F・ケネディが会い、ベルリンの扱いをめぐって激しく対立していた。フルシチョフは最終的に、東ドイツが境界を閉じることを認めた。
8月13日、日曜の未明に、東ドイツの警察と軍、工場の労働者からなる武装部隊が、東西ベルリンの境界と、西ベルリンを取り囲む線の全体に一斉に展開した。道路が封鎖され、境界をまたぐ地下鉄や電車が止まり、電話線が切られた。有刺鉄線が張られ、敷石がはがされた。作業の実務を指揮したのは、のちに東ドイツの最高指導者となるホーネッカーだった。

家族が、その日から別々になった。前の晩に西の親戚の家に泊まった者は、もう家に帰れなかった。境界に面したベルナウアー通りでは、建物の玄関が東側、前の歩道が西側にあった。人々は窓から通りへ飛び降り、西の消防士が下で布を広げて受け止めた。やがて窓もレンガで塞がれた。境界の警備に就いていた若い兵士が、有刺鉄線を跳び越えて西へ逃げる写真は、世界中に配信された。
西側の政府は抗議したが、実力で壁を取り払おうとはしなかった。西ベルリンへの西側の権利そのものが脅かされたわけではなかったからである。ケネディは周囲に、壁は戦争よりはるかにましだ、と漏らしたと伝えられる。10月には、外国人の通行をめぐって、検問所チェックポイント・チャーリーを挟んで米ソの戦車が十数時間にらみ合った。冷戦の最前線が、町の真ん中の交差点にあった。

後に、コンクリートの壁に置き換えられる。壁は何度も造り替えられ、最後には、西ベルリンを取り囲んで全長150キロを超えた。東側には奥にもう一枚の壁があり、そのあいだには、見通しをよくするために建物を取り壊し、砂を敷いた「死の帯」が設けられた。監視塔、照明、警報装置、番犬が並び、逃げようとする者を撃つよう警備兵は命じられていた。
それでも人は越えようとした。地下にトンネルを掘り、車の座席の下に隠れ、手作りの気球で飛んだ。成功した者もいたが、越えようとして、少なくとも140人が死んだ。1962年には、18歳の青年ペーター・フェヒターが壁を登りかけたところを撃たれ、死の帯の中で助けを呼びながら、1時間近く誰にも手当てされずに死んだ。西側の市民が見ている前でのことだった。

東側は、これを「反ファシズム防壁」と呼んだ。西の侵略者やスパイから社会主義を守るための、外から守るための壁だ、と。銃口と監視塔は、ほとんどすべて東の側を向いていた。実際には、内から出るのを止めるためになる。
1963年6月、ケネディは西ベルリンを訪れ、壁の前に集まった群衆に、自分もベルリン市民である、とドイツ語で語りかけた。壁は、言葉よりもはっきりと物語「冷戦」の姿を世界に見せた。自由な体制は人を閉じ込める必要がなく、閉じ込めなければならない体制のほうが人を失っていく、という主張の、動かぬ証拠として使われた。

28年後、一夜で開く。1989年11月9日、東ドイツ政府の報道官が、手違いから国外への旅行の自由化を「ただちに」と発表すると、人々は検問所に押しかけ、その夜のうちに門が開いた(ベルリンの壁の崩壊)。翌年、ドイツは統一された。いまベルリンの町には、壁の跡を示す線が路面に埋め込まれ、ベルナウアー通りには一部の壁と死の帯が記念の場として残されている。