ローマ条約
概要
石炭と鉄鋼を共同で管理するところから始めて、経済共同体を作った。EUの原型になる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
20世紀の前半、ヨーロッパは二度の大戦の戦場になった。とくにフランスとドイツは、1870年からの70年あまりのあいだに三度戦っている。第二次世界大戦が終わったとき、どうすれば次の戦争を起こさずにすむか、という問いが、西ヨーロッパの政治家たちの前にあった。
答えの一つを出したのが、フランスの実業家で官僚のジャン・モネだった。それを1950年5月9日、フランスの外相ロベール・シューマンが発表した。フランスと西ドイツの石炭と鉄鋼の生産を、一つの共同の機関のもとに置こう、という提案である。石炭と鉄鋼は、武器を作るのに欠かせない。それを共同で管理すれば、互いに隠れて戦争の準備をすることはできなくなる。シューマンは、これで戦争は考えられないだけでなく、物の上でも不可能になる、と述べた。
この呼びかけに、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが応じた。1951年、6か国はパリで条約を結び、翌年、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体が動き出した。国の上に立つ機関が、加盟国の産業について決める力を持つ。それまでにない仕組みだった。
次の一歩は、つまずいた。6か国は軍隊も一つにする防衛共同体を作ろうとしたが、1954年、言い出したフランスの議会がこれを否決した。国の軍を手放すことへの反発は強かった。政治や軍事の統合を先に進めるのは難しい。そこで、もう一度経済から進めることになった。1955年、6か国の外相はイタリアのメッシーナに集まり、ベルギーの外相スパークを中心に、新しい共同体の案を練った。
1957年3月25日、ローマのカピトリーノの丘にある建物で、6か国の代表が二つの条約に署名した。一つはヨーロッパ経済共同体(EEC)を作る条約、もう一つは原子力を共同で開発するための共同体を作る条約である。前者が、ふつうローマ条約と呼ばれる。条約は翌1958年1月1日に動き出した。
ローマ条約の中身は、関税同盟と共同市場だった。加盟国のあいだの関税を段階的になくし、外の国に対しては共通の関税をかける。物だけでなく、人、サービス、お金も国境を越えて自由に動けるようにすることを目指した。農業については共通の政策を作ることも決められた。条約の前文は、ヨーロッパの人々のあいだに、より緊密な連合の基礎を築く、という決意を掲げていた。
政治の統合を先に目指すのではなく、経済の結びつきを深めていけば、やがて政治の統合も必要になる。こうした積み上げ型の進め方は、のちに機能主義と呼ばれた。関税同盟は予定より早く、1968年に完成した。
イギリスは、初めこの動きに加わらなかった。国の主権を国の上の機関に渡すことを嫌い、またイギリス連邦との結びつきを重んじたからである。だが共同体の経済が伸びるのを見て、1961年に加盟を申し込む。これは、フランスのシャルル・ド・ゴールに二度拒まれた。イギリスがデンマーク、アイルランドとともに加盟したのは、ド・ゴールが退いた後の1973年である。
共同体はその後、加盟国を増やし、1992年のマーストリヒト条約で欧州連合(EU)になった。2002年には共通の通貨の紙幣と硬貨が出回り(ユーロの紙幣と硬貨)、2004年には東ヨーロッパの国々が一度に加わった(EUの東方拡大)。2016年、イギリスは国民投票で離脱を選ぶことになる(ブレグジット)。
フランスとドイツは、ローマ条約からいままで、一度も戦っていない。シューマンが提案を発表した5月9日は、いまヨーロッパの日として祝われている。戦争を防ぐための枠組みが、石炭と鉄鋼という、地味な物の話から始まっている。