チェ・ゲバラ
概要
アルゼンチンの医学生が大陸を旅し、キューバ革命に加わった。ボリビアで殺され、その顔だけが世界中に残る。
関わったできごと(1)
キューバ革命AD1959年1月1日 · ゲリラの指揮本文
本名はエルネスト・ゲバラ。1928年6月、アルゼンチンのロサリオで、中流の家庭に生まれた。2歳のころから重い喘息に苦しみ、学校にも満足に通えない時期があったが、父母は家で本を読ませ、体を鍛えさせた。彼はラグビーに熱中し、発作を抑える吸入器を手放さずに走った。ブエノスアイレス大学の医学部に進んだのも、自分の病が理由の一つだったといわれる。

1951年の暮れから翌年にかけて、医学生のゲバラは、年上の友人アルベルト・グラナードと、古いオートバイで南米を旅した。アルゼンチンからチリへ渡り、ペルー、コロンビア、ベネズエラへ。途中でオートバイは壊れ、二人はトラックの荷台に乗り、歩き、川を筏で下った。チリの銅山で働く貧しい鉱夫の夫婦、アンデスの先住民の暮らし、ペルーのアマゾン川のほとりのハンセン病療養所での日々が、彼の考えを変えたと本人の日記にある。この旅の記録は、死後に『モーターサイクル・ダイアリーズ』として出版された。
1953年に医師の資格を取ると、彼は再び旅に出た。ボリビアでは革命後の土地改革を見て、グアテマラにたどり着く。そこでは、アルベンス大統領の政権が、アメリカの大企業の持つ広大な未使用の土地を農民に分け与える改革を進めていた。1954年、アメリカの中央情報局(CIA)が後押しした軍事クーデターで、その政権は倒された。目の前で改革がつぶされるのを見たことが、選挙ではなく武力で社会を変えるしかないという確信につながったとされる。

メキシコへ逃れたゲバラは、1955年、キューバの独裁政権を倒すために亡命していた若い弁護士フィデル・カストロと出会った。一晩語り合って、遠征に軍医として加わることを決めた。キューバ人たちは、話の途中で「チェ」(ねえ、おい、という意味のアルゼンチンの口癖)と呼びかける彼を、そのままチェと呼ぶようになった。
1956年11月、82人を乗せた小さなヨット「グランマ号」がメキシコを出た。上陸直後に政府軍に襲われ、生き残ってシエラ・マエストラの山中にたどり着いたのは20人ほどだった。ゲバラはある戦闘で、医薬品の箱と弾薬の箱のどちらかしか持って逃げられなくなり、弾薬を選んだ、と後に書いている。医師は兵士になり、やがてゲリラの部隊を率いる司令官になった。1958年の暮れ、彼の部隊は中部の要衝サンタクララを落とし、独裁者バティスタは国外へ逃げた(キューバ革命)。

革命政権でのゲバラは、まず首都の要塞の司令官として、旧政権の関係者を裁く革命裁判を取り仕切った。数か月の間に多くの人が銃殺刑になり、このことは今も彼への批判の大きな理由になっている。その後、国立銀行の総裁となり、紙幣にはただ「Che」と署名した。ついで工業相となり、キューバの産業をソ連型の計画経済で作り変えようとした。金銭のためではなく社会のために働く「新しい人間」を作ることを唱え、自ら週末にサトウキビ畑や工場で無償の労働をした。だが、経済の計画の多くはうまくいかなかった。
この間、キューバとアメリカの関係は決定的に壊れた。1961年のピッグス湾事件、翌年のキューバ危機を経て、キューバはソ連の側に深く組み込まれていく。ゲバラは、ソ連が自国の利益のためにキューバを使っていると考え、1965年、アルジェリアでの演説でソ連を公然と批判した。その直後、彼は公の場から姿を消した。カストロは後に、ゲバラが残した別れの手紙を読み上げた。キューバでの職と市民権を捨て、ほかの国の解放のために行く、という内容だった。

1965年、彼はアフリカのコンゴへ渡り、内戦の中の反政府勢力を助けようとした(コンゴ動乱)。だが現地の勢力はまとまりを欠き、7か月で撤退した。本人の記録は、この遠征を「失敗の歴史」と書き出している。
1966年の秋、ゲバラは変装してボリビアに入り、南東部の山中で少人数のゲリラ部隊を作った。南米の中心から革命を広げようという計画だった。だが、ボリビアの共産党の協力は得られず、土地改革をすでに経験していた現地の農民の支持もほとんど得られなかった。部隊は追われ、病と飢えで弱っていった。1967年10月8日、ユロ渓谷の戦闘で負傷して捕らえられ、翌9日、近くのラ・イゲラ村の小学校で、ボリビア軍の兵士に銃殺された。39歳だった。遺体は公開された後、ひそかに埋められ、遺骨が見つかってキューバに戻されたのは30年後の1997年である。

死後、一枚の写真が彼の分身になった。1960年、写真家アルベルト・コルダが、ハバナでの追悼集会で壇上のゲバラを撮った一枚である。遠くを見つめるベレー帽の顔は、1968年の世界の若者たちの反乱の中でポスターになり、その後、Tシャツやマグカップに刷られて世界中に広まった。資本主義と戦った人の顔が、大量に売られる商品になったという皮肉は、繰り返し指摘されている。
ゲバラの評価は、今も大きく分かれる。貧しい人びとのために自分の地位も命も捨てた理想家として讃える人がいる一方で、革命裁判での処刑や、暴力による革命を広めようとしたことを厳しく批判する人も多い。ただ、自分の唱えたことを自分の身で実行しようとした人だったことは、批判する側の多くも認めている。