できごと

マーシャル・プラン

Marshall Plan
AD1947年6月5日
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコキューバグアテマラAD1947年6月5日ケンブリッジ(マサチューセッツ)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1947年6月5日の版図を描いています(8勢力)。

概要

国務長官がハーヴァードの卒業式で「飢えと貧困と絶望と混乱に対する」援助を提案した。4年で130億ドル。西欧16か国。ソ連は東欧に受け取らせなかった。西ドイツが復興し、共産党は西で弱まり、ヨーロッパは二つに固まった。

場所

ケンブリッジ(マサチューセッツ)
42.37°N -71.12°E · アメリカ・マサチューセッツ州

関わった人(1)

ジョージ・マーシャルAD1880年12月31日–AD1959年10月16日 · 提案

本文

第二次世界大戦が終わって2年がたっても、ヨーロッパは立ち直れずにいた。都市は爆撃で壊れ、鉄道と橋は落ち、工場には原料も燃料も無かった。1946年から47年にかけての冬は記録的な寒さで、イギリスでは石炭が運べずに発電所が止まり、大陸では運河が凍った。農民は、お金を受け取っても買える品物が無いので、都市に作物を売らずに抱え込んだ。都市では配給の量が減り、闇市がはびこった。ヨーロッパの国々は、復興に要る機械や食糧や燃料をアメリカから買いたくても、支払うドルが尽きかけていた。

アメリカの政府は、この窮状が政治の危機につながることを恐れた。フランスとイタリアでは共産党が国政選挙で大きな票を集め、ギリシアでは共産主義者との内戦が続いていた。1946年には「鉄のカーテン」演説で、ヨーロッパを分ける線が語られていた。1947年3月、ハリー・トルーマン大統領は、共産主義の圧力にさらされた自由な国々を支えると宣言し、ギリシアとトルコに援助を送った(トルーマン・ドクトリン)。同じ春、ドイツの将来を話し合うモスクワの外相会議が物別れに終わった。帰国した国務長官ジョージ・マーシャルは、ラジオで、患者は衰えているのに、医者たちは話し合いを続けている、と語った。

「鉄のカーテン」演説に関わる図版:1946-03-05 Sinews of Peace Speech
「鉄のカーテン」演説Wikimedia Commons Вестминстерский колледж в штате Миссури, США · Public domain

国務省では、政策企画室のジョージ・ケナンや経済担当の次官ウィル・クレイトンらが、ヨーロッパ全体の復興を助ける計画を練っていた。クレイトンはヨーロッパを視察し、何百万人もがゆっくりと飢えていると報告した。1947年6月5日、マーシャルはハーヴァード大学の卒業式に招かれ、式のあとの集まりで10分あまりの演説をした。彼は淡々とヨーロッパの現状を述べ、アメリカは世界の経済が健全な状態を取り戻すのを助けるためにできることをすべきだと言った。それなしには政治の安定も平和もありえない。そして、私たちの政策は、いかなる国にも、いかなる主義にも向けられたものではなく、飢えと貧困と絶望と混乱に向けられたものである、と続けた。計画を作る主導権はヨーロッパにあり、アメリカはそれを支える、とも述べた。具体的な金額も、仕組みも語られなかった。

この演説にいち早く応じたのが、イギリスの外相アーネスト・ベヴィンである。彼はラジオで演説の内容を知り、すぐにフランスの外相ビドーと連絡を取った。6月27日、パリでイギリス、フランス、ソ連の外相が会った。ソ連の外相モロトフは、各国がそれぞれ必要な額をアメリカに申し出ればよいと主張し、ヨーロッパ全体で共同の計画を作り、各国の経済の情報を出し合うやり方を、主権への干渉だとして退けた。7月2日、モロトフは席を立ってモスクワへ帰った。

フランスにおけるマーシャル大佐(1919年以前)
ジョージ・マーシャルWikimedia Commons unknown Army photographer · Public domain

ポーランドとチェコスロヴァキアは、いったん計画への参加を表明していた。だがスターリンはチェコスロヴァキアの代表をモスクワに呼びつけ、参加を取り消させた。チェコスロヴァキアの外相ヤン・マサリクは、自分は独立国の外相としてモスクワへ行き、ソ連の家来として戻ってきた、ともらしたと伝えられる。7月12日、パリで西ヨーロッパと南ヨーロッパの16か国が集まり、復興の計画を話し合う委員会を作った。この委員会は翌年、援助の受け皿となる欧州経済協力機構に引き継がれる。

アメリカの議会には、外国に巨額の金を出すことへの反対も強かった。流れを変えたのは、1948年2月のチェコスロヴァキアの政変である(チェコスロヴァキアの二月事件)。共産党が力で権力を握り、マサリクはまもなく外務省の窓の下で遺体となって見つかった。4月3日、トルーマンは経済協力法に署名し、正式には欧州復興計画と呼ばれる援助が始まった。

秋のハーバード・ヤード(ケンブリッジ、マサチューセッツ、2015年)
秋のハーバード・ヤード(ケンブリッジ、マサチューセッツ、2015年)Wikimedia Commons Nina R from Africa · CC BY 2.0

1948年から1951年ごろまでの4年ほどで、アメリカは西ヨーロッパの国々におよそ130億ドルを送った。当時のアメリカの国内総生産の1%を超える額である。多く受け取ったのは、イギリスが30億ドルあまり、フランスが20億ドル台の後半、イタリアと西ドイツがそれぞれ10億ドル台だった。援助の多くは、食糧、燃料、肥料、機械、原料といった品物の形で届いた。受け取った国の政府は、その品物を国内で売った代金を「見返り資金」として積み立て、アメリカと相談しながら、発電所や鉄道や工場の再建にあてた。アメリカは、労働者と経営者の視察団を招いて工場の生産性を学ばせることにも力を入れた。

1950年代のはじめには、西ヨーロッパの工業生産は戦前を3割以上上回る水準に戻っていた。ただ、それがどこまでマーシャル・プランのおかげなのかは、歴史家のあいだで意見が分かれる。ヨーロッパの復興は援助の前から始まっていたとして、その役割を控えめに見る研究者もいる。一方で、ドルが尽きて輸入が止まれば復興は失速していたはずで、援助がその危機を救ったという見方も強い。各国に共同で計画を作らせたことが、のちのヨーロッパの統合の下地になったことは、多くの研究者が認めている。

計画は、ヨーロッパを東と西に分ける線をはっきりさせもした。ソ連は1947年9月に各国の共産党を結ぶ組織を作り、1949年1月には東ヨーロッパの国々と独自の経済協力の枠組みを作った(コメコンの創設)。援助を受けた西側の占領地区のドイツでは、1948年6月に新しい通貨が導入され、これに反発したソ連は西ベルリンへの陸の道をふさいだ(ベルリン封鎖)。翌1949年にはNATOの結成が結ばれ、ドイツは東西二つの国に分かれた。マーシャル・プランは、西ヨーロッパを立ち直らせると同時に、冷戦の対立の形を固めることになった(物語「冷戦」)。フランスとイタリアの共産党はすでに1947年5月に連立政権から外れていたが、復興が進むにつれて、政権に戻る見込みを失っていった。

ベルリン封鎖に関わる図版:C-54 landing at Tempelhof
ベルリン封鎖Wikimedia Commons Henry Ries / USAF · Public domain

マーシャルは1953年、ノーベル平和賞を受けた。その後、戦争や混乱で荒れた土地の復興が語られるたびに、新しいマーシャル・プランを、という言葉が繰り返されてきた。だがヨーロッパのように、援助を受け止める技術と組織と人材が残っていた土地は多くない。マーシャル・プランの成功は、アメリカの気前のよさと同じくらい、受け取ったヨーロッパの側の力によっていた。

動画(1)

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