ニコラエ・チャウシェスク
概要
靴職人の徒弟。1965年から24年。プラハ侵攻に反対して西に好かれ、ニクソンとエリザベスが来た。外債を返すために国民を飢えさせ、暖房を止めた。1000部屋の宮殿。妻エレナは「科学者」。1989年12月25日、兵舎の壁の前で。裁判は2時間。
関わったできごと(1)
ルーマニア革命AD1989年12月22日 · 銃殺された本文
ニコラエ・チャウシェスクは、1918年1月26日、ルーマニア南部の村スコルニチェシュティの貧しい農家に生まれた。子だくさんの家で、11歳のころ首都ブカレストに出て、靴職人の徒弟になった。

10代で非合法の共産主義の青年運動に加わり、1930年代の半ばから何度も逮捕された。獄中で、のちに党の指導者となるゲオルゲ・ゲオルギウ=デジと知り合い、その腹心になった。1939年頃、のちの妻エレナと出会っている。
1944年、ルーマニアがソ連の側に寝返り、戦後に共産党が政権を握ると、チャウシェスクはデジのもとで出世した。農業省の次官、軍の政治部門を経て、党の書記として組織と人事を握った。1965年3月にデジが死ぬと、47歳で党の第一書記に選ばれた(同じ年に書記長と改称)。
最初の数年、彼は穏健な改革者のように見えた。言論の締めつけを少し緩め、ソ連から距離を置く外交を進めた。1968年8月21日、ソ連などの軍がチェコスロヴァキアに侵攻した翌日(プラハの春)、彼はブカレストの党本部のバルコニーから大群衆に向かって、侵攻は大きな誤りであり、ヨーロッパの平和への脅威だと演説した。ワルシャワ条約機構の国の指導者として異例の行動だった。西側は彼を歓迎した。フランスのド・ゴールが訪れ、1969年にはアメリカのリチャード・ニクソン大統領が共産圏の国として初めて公式訪問し、1978年にはイギリスに国賓として招かれた。

しかし国内の政治は逆の方向へ進んだ。1971年、中国と北朝鮮を訪れて個人崇拝と大衆動員に感銘を受けた彼は、帰国後、思想の引き締めを命じた。1974年には新設の大統領職に就き、王笏を手にして就任式に臨んだ。妻エレナは党の最高幹部となり、正規の高等教育を受けていないにもかかわらず、世界的な化学者として宣伝された。息子ニクも要職に就き、一族による支配が強まった。
人口を増やすため、1966年の政令で妊娠中絶と避妊を厳しく制限した。望まれない子どもが増え、多くの子どもが劣悪な施設に送られた。1980年代には、伝統的な村を壊して農民を集合住宅に移す計画を進めた。ブカレストでは旧市街の広い範囲を取り壊し、世界でも最大級の建物である「国民の館」の建設を始めた。

1980年代、チャウシェスクは、西側から借りた100億ドルを超える外国の借金を、すべて返すと決めた。食料や工業製品を輸出に回し、国内では食料を配給にし、冬の暖房と電気を厳しく制限した。テレビの放送は1日数時間に減った。秘密警察セクリターテが社会の隅々を監視した。1989年4月、借金の返済は終わったと発表された。
1989年秋、東欧の共産党政権が次々に倒れた(ベルリンの壁の崩壊)。11月の党大会で、チャウシェスクは書記長に再選され、改革を拒んだ。12月、西部の都市ティミショアラで、ハンガリー系の牧師の立ち退きに抗議する住民のデモが起き、治安部隊が発砲した(ルーマニア革命)。12月21日、ブカレストで開いた官製の集会で、チャウシェスクの演説は群衆のやじと叫び声にかき消された。テレビの生中継で、言葉を失った彼の顔が映し出された。翌22日、軍が民衆の側についた。夫妻は党本部の屋上からヘリコプターで逃れたが、地方で捕らえられた。

12月25日、トゥルゴヴィシテの兵舎で、急ごしらえの軍事法廷が開かれた。罪状には大量虐殺が含まれていた。夫妻は法廷を認めないと言い続けた。1時間ほどで死刑が言い渡され、二人はすぐに兵舎の中庭の壁の前で銃殺された。処刑の映像はテレビで流された。正式な手続きを踏まない裁判だったことは、のちに国内外から批判された。
二人はブカレストの墓地に偽名で葬られた。本当に本人の遺体なのかという疑いが消えず、2010年、遺族の求めで掘り起こされ、DNAの鑑定で本人と確認された。いまのルーマニアでは、彼の時代をなつかしむ声も一部に残っている。