概要
戦後のチェコスロヴァキアは、共産党が第一党でありながら、ほかの政党とともに議会の政治を続けていた。1948年2月、警察を共産党が握ろうとすることに抗議して、共産党以外の大臣たちが辞表を出した。大統領ベネシュが選挙に打って出ると見込んだのである。共産党は労働者の民兵を街に出し、大規模な集会とストライキで圧力をかける。2月25日、ベネシュは辞表を受け入れ、共産党の主導する内閣を認めた。二週間後、外相ヤン・マサリクが外務省の窓の下で死んでいるのが見つかる。西側は衝撃を受け、翌年のNATOの結成を急いだ。
場所
50.08°N 14.44°E · チェコ
本文
第二次世界大戦の前、チェコスロヴァキアは中欧でただ一つ、民主主義を守り通した国だった。1938年、ミュンヘンでイギリスとフランスに見捨てられ、ナチス・ドイツに解体される。1945年、国を解放したのはソ連軍だった。人々の多くは、西側を信じられず、ソ連に好意を寄せた。
1946年の選挙で、共産党は38パーセントの票を得て第一党になり、首相を出した。ただし、大統領は亡命政府を率いたエドヴァルト・ベネシュで、ほかの政党も内閣に加わっていた。1947年7月、政府はアメリカのマーシャル・プランに加わると決めたが、モスクワに呼ばれたとたんに撤回させられた。国の行く先を決めているのが誰なのかが、はっきりした。
1948年2月、共産党の内相が警察の幹部を党員に入れ替えていることに抗議して、共産党以外の12人の大臣が辞表を出した。ベネシュが辞表を受け取らず、早い選挙になると見込んだのである。しかし共産党は動きが速かった。労働者の民兵が武器を持って街に出て、プラハの広場を群衆が埋め、全国でストライキが打たれる。病身のベネシュは、2月25日、辞表を受け入れ、共産党が選んだ閣僚の名簿に署名した。ベネシュはその年のうちに辞任し、亡くなった。
3月10日、建国の父の息子で、共産党以外で内閣に残っていた外相ヤン・マサリクが、外務省の建物の中庭で死んでいるのが見つかった。窓から落ちたのである。自殺とされたが、殺されたと信じる人は多い。西側の国々は、東欧で最後の民主主義の国が一滴の血も流さずに奪われたことに衝撃を受けた。翌月、アメリカの議会はマーシャル・プランの予算を通し、翌年にはNATOの結成に至る。