人物

ゴルバチョフ

Mikhail Gorbachev
AD1931年3月2日 – AD2022年8月30日(享年91)
ソビエト連邦重要度 5

概要

改革を試み、結果として体制を畳んだ。武力で押さえつけない選択が、冷戦を戦争なしに終わらせる。

関わったできごと(6)

レイキャヴィーク会談AD1986年 · ソ連側チェルノブイリ原発事故AD1986年4月26日 · 書記長中距離核戦力全廃条約AD1987年12月8日 · 署名マルタ会談AD1989年12月2日 · ソ8月クーデターAD1991年8月19日 · 閉じ込められたソ連の解体AD1991年12月25日 · 辞任

本文

1931年3月2日、ソ連南部、北カフカスのスタヴロポリ地方の村に、農民の子として生まれた。農業の集団化が強行されていた時代で、幼いころに地方は飢饉に見舞われた。祖父は二人ともスターリンの時代に逮捕されている。一人は集団農場の計画を果たせなかったとして、もう一人は反革命の罪を着せられてで、二人ともやがて釈放された。10歳のとき独ソ戦が始まり、村は一時ドイツ軍に占領された。

書記長就任時初期(1986年)
書記長就任時初期(1986年)Wikimedia Commons Series: Reagan White House Photographs, 1/20/1981 - 1/20/1989 Collection: White House Photographic Collection, 1/20/1981 · Public domain

10代の夏は父と一緒にコンバインを運転し、大豊作に貢献したとして若くして勲章を受けた。この経歴もあって、1950年に名門のモスクワ大学法学部に入った。大学で知り合ったライサと結婚し、二人は生涯、互いを支えた。在学中の1953年にスターリンが死に、1956年にはニキータ・フルシチョフがスターリン批判の秘密報告を行った。体制の内側から変わりうるという感覚は、この世代の若者の多くに共有されていた。

卒業後は故郷のスタヴロポリに戻り、共産党の青年組織と党の地方組織で出世を重ねた。農業地帯の責任者として成果を上げ、保養地を訪れる党の幹部たちの目にとまった。1978年にモスクワへ呼ばれて党中央委員会の農業担当書記となり、1980年には最高指導部である政治局の一員になった。

アメリカの大統領ロナルド・レーガン(右)とともにINF全廃条約に署名するゴルバチョフ
アメリカの大統領ロナルド・レーガン(右)とともにINF全廃条約に署名するゴルバチョフWikimedia Commons White House Photographic Office · Public domain

そのころソ連の指導部は高齢化していた。長く権力の座にあったブレジネフが1982年に死に、後を継いだアンドロポフは1984年に、その次のチェルネンコは1985年3月に、相次いで病死した。3人の書記長の葬儀が3年続き、1985年3月、54歳のゴルバチョフが書記長に選ばれた。政治局で最も若い世代からの選択だった。

経済は停滞し、ソ連のアフガニスタン侵攻は泥沼になり、軍事費が国を圧迫していた。ゴルバチョフが最初に打ち出したのは、酒の販売を絞る反アルコール運動のような、規律の引き締めだった。それが変わるきっかけの一つが、1986年4月のチェルノブイリ原発事故である。事故の情報は国内にもなかなか伝えられず、隠そうとする官僚制の体質がそのまま被害を広げた。

ボリス・エリツィン(1991年)
ボリス・エリツィン(1991年)Wikimedia Commons ITAR-TASS · CC BY 4.0

ここからペレストロイカとグラスノスチが本格化する。ペレストロイカは「立て直し」、グラスノスチは「情報公開」を意味する。新聞やテレビで政府の失敗を論じることが許され、禁書が出版され、スターリンの時代の粛清の犠牲者たちの名誉が回復された。1989年には、複数の候補から選ぶ選挙で人民代議員大会が開かれ、その議論がテレビで中継された。ゴルバチョフが目指したのは体制を壊すことではなく、社会主義を人間の顔をしたものに直すことだった。

だが、開いた蓋は閉まらなくなった。物不足は改革でむしろひどくなり、行列は長くなった。情報が自由になると、経済の行き詰まりも、歴史の暗部も、各民族の不満も、一斉に表に出た。バルト三国やカフカスでは独立を求める声が高まった。

外交では大きく舵を切った。アメリカのロナルド・レーガン大統領と会談を重ね、1987年には中距離核戦力をまるごと廃棄する条約に調印した。1989年2月にはアフガニスタンからの撤兵を終えた。そしてこの年、東ヨーロッパの社会主義国で次々に体制が倒れたとき、軍を出さなかった。1956年のハンガリー動乱でも、1968年のプラハの春でも、ソ連は戦車で押さえつけていた。11月にベルリンの壁の崩壊が起き、12月のマルタ会談で、アメリカのブッシュ大統領と冷戦の終わりを確かめ合った。翌1990年、東西ドイツの統一を認め、ノーベル平和賞を受けた。

ハンガリー動乱に関わる図版:Hungarian Revolution of 1956 collage
ハンガリー動乱Wikimedia Commons Главцентроархив · CC0

ただし、武力を使わなかったと言い切れるわけではない。国内では、1989年にグルジア(いまのジョージア)のトビリシで、1991年1月にはリトアニアのヴィリニュスで、集まった市民に軍が発砲し死者が出た。ゴルバチョフは自分は命じていないと説明したが、責任をめぐる議論は残った。

1990年、ソ連の大統領に就いた。しかし改革を急ぐ勢力と、元に戻そうとする勢力の板挟みになり、権威は下がり続けた。急進改革派の旗手は、ロシア共和国の大統領に選ばれたボリス・エリツィンだった。1991年8月、党と軍の保守派がクーデターを起こし、黒海沿岸の別荘で休暇中だったゴルバチョフを軟禁した。モスクワで戦車の上に立って抵抗を呼びかけたのはエリツィンで、クーデターは3日で崩れた。戻ったゴルバチョフに、もう力は残っていなかった。12月、各共和国の指導者が連邦の解消を決め、ゴルバチョフは12月25日に大統領を辞任した。ソ連の解体である。

レーガンの葬儀に参列するゴルバチョフ(左から2番目・2004年)
レーガンの葬儀に参列するゴルバチョフ(左から2番目・2004年)Wikimedia Commons Not identified. Part of whitehouse.gov photo essays. · Public domain

その後の人生は静かではなかった。1996年のロシア大統領選挙に立候補したが、得票は1パーセントにも届かなかった。1999年、ライサが白血病で亡くなり、ゴルバチョフは深く落ち込んだ。財団を作り、新聞の経営に関わり、晩年はロシアの民主主義の後退に批判的な言葉を残した。2022年8月30日、モスクワで死んだ。91歳。ロシアのプーチン大統領は葬儀に出なかった。

外での評価と内での評価が、これほど違う人も少ない。西側では、核戦争の危険を遠ざけ、東ヨーロッパの人々に自由をもたらし、冷戦を戦争なしに終わらせた指導者とされる。ロシアでは、国を失わせ、経済を混乱させた人物として見る人が多い。直すつもりで始めた改革が国そのものを畳むことになったのは、本人の意図ではなかった。しかし最後の局面で、力で体制を守る道を選ばなかったことは、本人の選択だった。

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