レオニード・ブレジネフ
概要
ウクライナの製鉄の街。フルシチョフを追って18年。プラハに戦車、「制限主権論」。デタント、SALT、ヘルシンキ、そしてアフガニスタン。勲章が好きで114個。晩年は薬で呂律が回らなかった。「停滞の時代」。石油の値で国を回し、それが落ちると国も落ちた。
関わったできごと(1)
ソ連のアフガニスタン侵攻AD1979年12月24日 · 決めた本文
レオニード・ブレジネフは、1906年12月19日、ウクライナのドニエプル川沿いの製鉄の町カメンスコエで、製鉄所の労働者の家に生まれた。土地測量の専門学校で学び、土地改革の仕事をしたあと、地元の冶金の大学で学んで技師になった。1931年に共産党に入った。

1930年代後半のスターリンの大粛清で、多くの党幹部が姿を消した。空いた席に、ブレジネフのような若い労働者出身の党員が引き上げられた。1938年、ドニプロペトロフスク州の党の幹部になり、ウクライナの党を率いていたニキータ・フルシチョフの目にとまった。独ソ戦では軍の政治将校として前線に立ち、黒海沿岸の小さな橋頭堡マラヤ・ゼムリャの戦いにも関わった。終戦時には少将になっていた。
戦後は、ウクライナの州の党を立て直したあと、1950年にモルドヴァの党第一書記、1954年にはカザフスタンに送られ、フルシチョフが進めた処女地の開墾を現地で指揮した。バイコヌールの宇宙基地の建設にも関わった。1960年、最高会議幹部会の議長として、形式上の国家元首になった。

1964年10月、ブレジネフは党の仲間たちとともに、休暇中のフルシチョフを呼び戻して退陣に追い込んだ。思いつきの改革と気まぐれな人事に、幹部たちが疲れていたのである。ブレジネフは党第一書記(1966年から書記長)となり、首相コスイギン、のちに最高会議議長ポドゴルヌイとともに集団指導を始めたが、やがて自分に権力を集めていった。幹部の地位を保障し、粛清も急な改革もしないブレジネフのやり方は、党と官僚の安定をもたらした。
1968年、チェコスロヴァキアでアレクサンデル・ドゥプチェクの改革が進むと、ブレジネフはワルシャワ条約機構の軍を送って押しつぶした(プラハの春)。社会主義の国の主権は、社会主義全体の利益によって制限されるという考えは、西側で「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれた。

1970年代、ブレジネフはアメリカとの緊張緩和(デタント)を進めた。1972年、リチャード・ニクソン大統領をモスクワに迎え、戦略兵器制限条約に調印した。車が好きだった彼に、ニクソンは高級車を贈った。1975年には、ヨーロッパの国境の現状と人権の尊重をうたうヘルシンキ宣言に署名した(ヘルシンキ宣言)。国境の承認はソ連の外交の勝利だったが、人権の条項は、のちにソ連や東欧の反体制派の拠り所になった。
1973年の石油危機(オイルショック)で原油の値が跳ね上がると、ソ連は石油と天然ガスの輸出で外貨を稼ぎ、それで西側から穀物や機械を買った。だが経済の効率は上がらず、成長は鈍り、店の棚から品物が消えることが増えた。のちにゴルバチョフは、この時代を「停滞の時代」と呼んだ。

1970年代の半ばから、ブレジネフの健康は目に見えて衰えた。発作を起こし、睡眠薬などに頼り、演説の言葉はもつれた。それでも周りの幹部たちは彼を退かせなかった。彼は勲章を好み、ソ連邦英雄の称号を4度受け、軍の最高の勲章である勝利勲章まで受けた(この勲章はのちに取り消された)。戦争の回想録『小さな土地』は代筆とされるが、文学賞を受け、学校で読まされた。人々は彼をめぐる小話を作って笑った。
1979年12月、ソ連軍はアフガニスタンに侵攻した(ソ連のアフガニスタン侵攻)。数週間で終わると見込まれた戦争は10年近く続き、ソ連の国力と威信を削った。翌1980年のモスクワ・オリンピックは、侵攻に抗議する西側の多くの国にボイコットされた(モスクワ・オリンピックのボイコット)。

1982年11月10日、ブレジネフはモスクワ郊外の別荘で、眠ったまま死んだ。75歳だった。その日のテレビは予定を変えて、バレエ「白鳥の湖」を流し続けた。後を継いだアンドロポフとチェルネンコも高齢で、相次いで死んだ。18年続いたブレジネフの時代は、ソ連が最も安定し、同時に変われなくなった時代だった。1979年に東ドイツのホーネッカーと交わした口づけの写真は、のちに画家ドミトリー・ヴルーベリによって、ベルリンの壁の残った部分に描かれた。