ワシントン大行進

概要
「私には夢がある」。翌年、公民権法が成立する。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
キング牧師AD1929年1月15日–AD1968年4月4日 · 演説本文
1963年8月28日、ワシントンのリンカーン記念堂の前から、細長い池に沿って人の海が広がった。集まったのは約25万人とされる。黒人だけでなく、白人の参加者も多かった。奴隷解放宣言(奴隷解放宣言)から、ちょうど100年目の夏だった。
正式な名は「仕事と自由のためのワシントン大行進」という。雇用の要求が、自由より先に来ている。南部では法律で人種が分けられ、学校もバスも食堂も別だった。北部にそうした法律は無くても、黒人の失業率は白人の倍ほどあり、働き口は低い賃金の仕事に限られていた。行進の発案者A・フィリップ・ランドルフは黒人の鉄道労働者の組合を率いてきた人物で、1941年にも同じ行進を計画し、軍需工場での差別を禁じる大統領令を引き出したことがある。実務を取り仕切ったのは、非暴力の運動に長く関わってきたベイヤード・ラスティンだった。
運動はそれまでの10年で、少しずつ地面を動かしていた。1954年のブラウン判決で、公立学校を人種で分けることは違憲とされた。1955年にはローザ・パークスの逮捕をきっかけにモンゴメリー・バス・ボイコットが始まり、若い牧師だったキング牧師が指導者として知られるようになった。1963年の春、アラバマ州バーミングハムでデモに加わった子どもたちに警察が消防の放水と警察犬を向け、その映像が全国に流れた。6月、ジョン・F・ケネディ大統領は公民権法案を議会に出すと表明した。行進は、この法案を通させるための圧力でもあった。

政府は暴動を恐れ、市内の酒の販売を止め、数千人の兵を待機させた。実際には、一日を通じて大きな混乱は起きなかった。壇上では歌手たちが歌い、運動団体の代表が順に演説した。学生組織を率いた23歳のジョン・ルイスは、政府を厳しく批判する原稿を用意していたが、主催者の説得で表現を和らげた。運動を支えてきた女性たちは壇上で紹介されたものの、正式な演説者に女性は一人もおらず、短い挨拶の時間が与えられただけだった。このことは後に、運動の内側の不平等として批判される。行進の外からの批判もあった。黒人の分離と自衛を説いたマルコムXは、政府と白人の支持者に飼いならされた催しだとして、これを茶番と呼んだ。
キングの演説は終わり近くにあった。用意された原稿は、アメリカが黒人に「不渡りの小切手」を渡した、という比喩から始まる。演説の途中、近くにいた福音歌手のマヘリア・ジャクソンが「マーティン、夢のことを話して」と声をかけたと伝えられる。キングはそこから原稿を離れ、「私には夢がある」と繰り返し始めた。いつの日か、ジョージアの赤い丘の上で、かつての奴隷の子と奴隷主の子が兄弟として同じ食卓につく、と。この「夢」のくだりは、キングがそれまでの集会でも語っていたもので、その場で一から作られたわけではない。原稿に無かったものを、その日の聴衆に向けて組み直したのである。
行進の後、キングら指導者はホワイトハウスに招かれ、ケネディと法案について話し合った。しかし、行進の熱は、すぐに冷たい現実にぶつかった。18日後、バーミングハムの黒人教会が爆破され、日曜学校にいた少女4人が死んだ。11月にはケネディが暗殺される(ケネディ暗殺)。後を継いだジョンソン大統領は、南部出身の議員を相手に法案を押し通し、1964年7月、公民権法が成立した。公共の場での人種による差別と、雇用での差別が禁じられた。

だが、南部ではなお黒人の多くが投票できなかった。登録の窓口で読み書きの試験を課されたり、脅されたりしたからである。1965年3月、アラバマ州セルマから州都へ向かうデモ隊が、橋の上で州警察に襲われた(セルマの橋)。その映像が再び世論を動かし、8月に投票権法が成立する。法律による人種の隔離は、ここで終わった。
キングはその後、目を貧困とベトナム戦争に向けた。1967年4月、ニューヨークの教会で戦争を公に批判すると、それまで味方だった政府や新聞から強い反発を受けた。人種の問題から経済と戦争へと話を広げるほど、支持は減っていった。一方、連邦捜査局は以前からキングを危険人物として監視し、盗聴を続けていた。

1968年4月4日、キングはメンフィスで暗殺された。清掃労働者のストライキを支援しに来ていた。39歳だった。全国の都市で暴動が起きた。現在、1月の第3月曜日はキングを記念する国の祝日になっている。ワシントン大行進のときに求められた「仕事」の平等は、法の上の平等ほどには実現していない。行進の名の前半は、いまも宿題として残っている。