人物

ニキータ・フルシチョフ

Nikita Khrushchev
AD1894年4月15日 – AD1971年9月11日(享年77)
ソ連重要度 5

概要

炭鉱の村の鍛冶屋の子。スターリンの下でウクライナの粛清を執行し、スターリンが死ぬと秘密報告で告発した。ハンガリーに戦車を送り、スプートニクを上げ、靴で机を叩き、キューバにミサイルを置いて引いた。1964年、仲間に追われた。年金生活で回想を録音し、西側で出版された。

関わったできごと(6)

処女地開拓AD1954年 · 計画を進めるフルシチョフの秘密報告AD1956年2月25日 · 報告ハンガリー動乱AD1956年10月23日 · 戦車を送ったスプートニク1号AD1957年10月4日 · 第一書記キューバ危機AD1962年 · 引いたベルリンの壁の崩壊AD1989年11月9日 · 建てさせた

本文

ニキータ・フルシチョフは、1894年4月15日、ロシア帝国の南西部、ウクライナとの境に近いクルスク県の村カリノフカに、貧しい農民の子として生まれた。父は冬になると南のドンバスの炭鉱へ出稼ぎに行き、一家はやがて炭鉱と製鉄の町ユゾフカ(いまのドネツク)に移った。ニキータは学校にはほとんど通えず、十代から工場で金属工や機械の修理工として働いた。読み書きを本格的に身につけたのは、大人になってからだった。

1956年、モスクワでのニキータ・フルシチョフ
1956年、モスクワでのニキータ・フルシチョフWikimedia Commons TASS · Public domain

1917年の革命のあと、彼は1918年にボリシェヴィキの党に入り、内戦では赤軍の政治委員として戦った。戦後はドンバスで党の仕事をしながら、労働者のための学校で学んだ。1929年、彼はモスクワの工業アカデミーに送られた。そこで党の組織を任された彼は、同じ学校にいたスターリンの妻ナジェージダ・アリルーエワの知遇を得たとされ、それが出世の道を開いた。1935年にはモスクワの市と州の党の第一書記となり、モスクワの地下鉄の建設を指揮した。

1930年代の後半、スターリン(ヨシフ・スターリン)の大粛清が国じゅうを覆った。フルシチョフもその歯車の一つだった。モスクワで、そして1938年からはウクライナの党の第一書記として、彼は数多くの人々の逮捕や処刑の名簿に同意を与えた。のちに彼がスターリンを告発したとき、自分自身がその加担者だったことには、あまり触れなかった。第二次世界大戦では、前線の軍の政治委員として、1941年のキエフの包囲での大敗北や、スターリングラードの戦いを経験した。空軍の操縦士だった長男レオニードは、1943年に出撃したまま戻らなかった。

1953年3月、スターリンが亡くなると(スターリンの死)、後継を巡る争いが始まった。最も恐れられていたのは、秘密警察を握るベリヤだった。フルシチョフは他の指導者たちをひそかにまとめ、6月、軍の将軍たちの力を借りてベリヤを会議の席で逮捕させた。ベリヤはその年の末に処刑された。9月、フルシチョフは党の第一書記になった。彼は、カザフスタンやシベリアの未開の草原を一気に耕して麦畑に変える処女地開拓を始め、若者たちを送り込んだ。

スターリンの死に関わる図版:Stalin's funeral procession entering Manezhnaya Square from Okhotny Ryad
スターリンの死Wikimedia Commons U.S. Army Major Martin Manhoff · Public domain

1956年2月、第20回党大会の最終日の深夜、フルシチョフは外国の代表を締め出した会場で、4時間にわたる演説を行った(フルシチョフの秘密報告)。スターリンが自分を神のように崇めさせ、無実の党員を次々に拷問して殺し、戦争の初めには判断を誤って大きな犠牲を出したと、具体的な事実を挙げて告発したのである。聞いていた代議員の中には気を失う者もいたと伝えられる。演説の内容はやがて国の内外に漏れ、ソ連と世界の共産主義の運動を揺さぶった。その年の秋、スターリン批判に勇気づけられたハンガリーで人々がソ連の支配に立ち上がると、フルシチョフは迷った末に戦車を送り込み、これを押しつぶした(ハンガリー動乱)。

1957年6月、モロトフやマレンコフら古参の指導者たちが、党の最高の会議で多数を固めて彼を解任しようとした。フルシチョフは、より大きな中央委員会で決めるべきだと押し返し、国防相ジューコフ元帥が軍の飛行機で各地の委員をモスクワに集めて、逆転に成功した。古参たちは「反党グループ」として退けられたが、殺されはせず、地方の発電所の所長などに飛ばされた。その数か月後、彼は力を持ちすぎたジューコフも解任した。同じ年の10月、ソ連は世界で初めての人工衛星を打ち上げ(スプートニク1号)、1961年にはガガーリンを乗せた宇宙船で人を初めて宇宙へ送った。フルシチョフは、ソ連がアメリカに追いつき追い越すと豪語した。

スプートニク・ショックで1957年のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたフルシチョフ
スプートニク・ショックで1957年のパーソン・オブ・ザ・イヤーに選ばれたフルシチョフWikimedia Commons Time Inc., illustration by Boris Artzybasheff. Time failed to renew the copyrights of many early issues; see wikisource: · Public domain

彼は、それまでのソ連の指導者とは違う型の人だった。よく喋り、冗談を言い、怒鳴り、外国にもよく出かけた。1959年、ソ連の指導者として初めてアメリカを訪れ、アイオワの農場でトウモロコシ畑を見て回り、警備の都合でディズニーランドに行けないと知ると腹を立てた。同じ年、モスクワで開かれたアメリカの博覧会では、アメリカの副大統領ニクソンと、展示された台所の前で、どちらの体制が優れているかを言い争った。1960年の国連総会では、演説に怒って机を叩き、靴を脱いで振りかざしたと伝えられる。靴で机を叩いたかどうかは、目撃者の証言が食い違い、確かな写真も残っていない。

国の外では、危うい賭けを重ねた。1961年、若い大統領ジョン・F・ケネディとウィーンで会談して圧力をかけ、その夏、東ドイツが西ベルリンとの境に壁を築くのを認めた(ベルリンの壁の建設)。1962年には、アメリカの目と鼻の先のキューバに、ひそかに核ミサイルを運び込んだ。アメリカに見つかり、世界は核戦争の淵に立った(キューバ危機)。13日間の駆け引きの末、彼はアメリカがキューバに攻め込まないことなどと引き換えにミサイルを引き揚げた。戦争は避けられたが、国内の軍や党には弱腰と映った。国の内では、強引な農業政策がつまずき、1962年には肉やバターの値上げに抗議したノヴォチェルカッスクの労働者たちに軍が発砲して、多くの死者が出た。中国との関係も決裂した。

キューバ危機に関わる図版:PGM-19A Jupiter missile-02
キューバ危機Wikimedia Commons USAF · Public domain

1964年10月、黒海の別荘で休暇中だったフルシチョフは、急に呼び戻された。待っていたのは、自分が引き上げたブレジネフ(レオニード・ブレジネフ)らによる解任の決定だった。表向きは「高齢と健康の悪化」による引退とされた。だが彼は、殺されも投獄もされず、年金と郊外の別荘を与えられた。彼は、自分が仕組みを変えたからこそ、こうして投票で退けられるだけで済んだのだと語ったと伝えられる。スターリンの時代には考えられないことだった。

引退後のフルシチョフは、テープレコーダーに向かって回想を語り続けた。録音は息子セルゲイらの手で国外に持ち出され、1970年、アメリカで回想録として出版された。ソ連の当局に問いただされると、彼は関わりを否定した。1971年9月11日、心臓の病で亡くなった。77歳だった。国葬は行われず、遺体はクレムリンの壁ではなく、モスクワのノヴォデヴィチ修道院の墓地に葬られた。墓碑を作ったのは、1962年に彼が展覧会で作品を罵倒した彫刻家エルンスト・ネイズヴェストヌイで、白と黒の石を組み合わせた像は、彼の光と影を表すと言われる。

アメリカのアイゼンハワー大統領夫妻とフルシチョフ夫妻(1959年)
アメリカのアイゼンハワー大統領夫妻とフルシチョフ夫妻(1959年)Wikimedia Commons National Archives and Records Administration · Public domain

フルシチョフの時代は「雪解け」と呼ばれる。収容所から何百万人もの人々が帰り、1962年には、収容所の一日を描いたソルジェニーツィンの小説『イワン・デニーソヴィチの一日』の発表を、彼自らが許した。だが同じ彼が、ハンガリーを押しつぶし、作家パステルナークにノーベル賞を辞退させ、核の瀬戸際外交を行った。彼はスターリンの暴力から抜け出そうとしながら、その体制の中で育った人だった。息子セルゲイは、のちにアメリカに移り住み、市民権を得た。

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