概要
1954年、ソ連のフルシチョフは、穀物の不足を解くために、カザフスタン北部とシベリア西部の、一度も耕されたことのない草原を畑に変える計画を始めた。「処女地」の開拓である。若者たちが志願してトラクターとともに送り込まれ、数年で日本の国土の面積を上回る土地が耕された。最初の年々は大豊作だったが、雨の少ない土地を休ませずに耕し続けたため、1960年代の初めには砂嵐で表土が飛ばされ、収穫は落ちた。カザフの人々は、自分たちの土地でさらに少数になった。
場所
51.17°N 71.45°E · カザフスタン
関わった人(1)
ニキータ・フルシチョフAD1894年4月15日–AD1971年9月11日 · 計画を進める本文
スターリンが死んだ1953年、ソ連の穀物の収穫は、革命の前とほとんど変わらなかった。集団農場は働く人の意欲を奪い、戦争の傷も残っていた。都市の人々に十分なパンと肉を届けることは、新しい指導者たちにとって急ぎの課題だった。
ニキータ・フルシチョフは、すでにある畑の収穫を上げるより、新しい土地を耕すほうが早いと考えた。目を付けたのは、カザフスタン北部、シベリア西部、ウラルの南の広い草原である。そこは遊牧の民の放牧地で、畑にされたことがなかった。1954年、計画が始まる。
共産主義青年同盟の呼びかけで、数十万人の若者が志願し、トラクターとともに列車で草原に向かった。最初の冬はテントや仮小屋で過ごし、何もない平原に国営農場の町が作られていった。6年で、4千万ヘクタールを超える草原が畑になった。日本の国土より広い。1956年には大豊作になり、計画は成功と宣伝された。
しかし、雨の少ない草原を、休ませず、肥料も足りないまま、毎年小麦を植えて深く耕し続けた。1960年代の初め、干ばつと強い風で、耕された表土が砂嵐となって吹き飛ばされ、収穫は大きく落ちた。1963年、ソ連はついに外国から小麦を買うことになり、翌年のフルシチョフの失脚の一因になった。移り住んだロシア人やウクライナ人の数は多く、カザフの飢饉で人口を減らしていたカザフの人々は、自分たちの国で少数になっていった。拠点の町ツェリノグラードは、いまのカザフスタンの首都アスタナである。