文化大革命

概要
10年にわたり社会が引き裂かれた。学問と文化財が破壊され、多数が命を落とす。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
関わった人(5)
周恩来AD1898年3月5日–AD1976年1月8日 · 行き過ぎを抑えようとした毛沢東AD1893年12月26日–AD1976年9月9日 · 発動林彪AD1907年12月5日–AD1971年9月13日 · 後継者劉少奇AD1898年11月24日–AD1969年11月12日 · 倒された鄧小平AD1904年8月22日–AD1997年2月19日 · 失脚本文
文化大革命の根は、その数年前の破局にある。1958年に毛沢東が号令をかけた大躍進は、鉄鋼と穀物の生産で短期間に先進国に追いつくことをめざし、農村を人民公社に組み替えた。結果は、誇張された生産報告と過大な穀物の徴発、そして飢饉だった。1959年から61年にかけての死者は、推計に大きな幅があるが、千数百万から数千万にのぼる。
1959年の廬山会議で、国防相の彭徳懐が大躍進の行き過ぎを私信で諫めると、毛は彼を失脚させた。それでも飢饉は隠しきれず、国家主席の劉少奇と党総書記の鄧小平が、農民の自留地や個人の請負を一部認める調整政策で経済を立て直していく。1962年の大会議で劉少奇は、災いは三分が天災、七分が人災だったと述べた。毛は第一線から退いた形になり、実務を握る者たちに不満と警戒を募らせた。文化大革命は、毛がこの失った主導権を取り戻すために始めたものだ、という見方が有力である。

口火は文学の批判だった。1965年11月、上海の評論家・姚文元が、北京市の副市長で歴史家の呉晗が書いた京劇『海瑞罷官』を攻撃する論文を発表する。皇帝を諫めて罷免された明の清官を描いたこの劇が、彭徳懐の失脚を暗に擁護している、というのである。翌1966年5月、党は文化革命を指導する小組を設け、毛の妻・江青らがその中心に入った。党の中に資本主義の道を歩む実権派がいる、という毛の主張が、運動の旗印になる。
街頭へ火をつけたのは若者たちだった。北京の大学や中学の生徒が「紅衛兵」を名乗り、教師や学校の幹部を糾弾し始めた。8月、毛は「司令部を砲撃せよ」という大字報を自ら書き、党の中枢を名指しせずに攻撃した。8月18日、天安門広場で軍服姿の毛が紅衛兵の大集会に臨むと、運動は全国に広がった。この年の秋までに、こうした接見は8回にわたり、地方から無料で列車に乗って上京した若者は延べ1000万人を超えたとされる。

紅衛兵は、古い思想・文化・風俗・習慣の「四旧」を打ち破れと叫んで街に出た。寺院や教会、仏像、古書、書画が壊され、焼かれた。山東の曲阜では孔子の墓所と廟が荒らされた。家々は捜索され、旧地主や資本家の家族、知識人が「牛鬼蛇神」として引き出された。北京だけで、1966年の夏の数週間に1700人以上が殴られて死んだという記録がある。中学の女性の副校長が生徒たちに殴り殺される事件も起きた。作家の老舎は、紅衛兵に暴行された翌日、湖に身を投げて死んだ。
運動は党の中枢を飲み込んだ。劉少奇は「最大の実権派」として批判され、地位を奪われ、病を十分に治療されないまま1969年に河南省開封で死んだ。鄧小平も失脚して江西省のトラクター工場で働かされた。1967年からは、紅衛兵や労働者の組織が派閥に分かれて武器を取り、各地で武闘と呼ばれる内戦のような衝突が起きた。秩序を立て直すため、毛は軍を投入する。

1968年末からは、都市の若者を農村や辺境へ送り出す「上山下郷」が本格化した。紅衛兵の熱を冷まし、都市の失業を逃がす意味もあったとされる。農村へ渡った若者は1600万人を超える。大学の入試は止まり、多くの若者が10年近く学校で学ぶ機会を失った。のちの中国で指導者となる世代の多くも、この経験をくぐっている。
1969年の党大会で、国防相の林彪が毛の後継者として党規約に書き込まれた。だが2年後の1971年9月、林彪は毛の暗殺を企てたとされ、家族とともに飛行機でソ連の方角へ逃れる途中、モンゴルで墜落して死んだ。後継者に指名された人物の逃亡と死は、多くの人々に運動への疑いを抱かせたと言われる。翌1972年のニクソン訪中は、外交の転換を内外に示した。

この間、首相の周恩来は、毛に逆らわない範囲で、行政と外交を回し、一部の幹部や文化財を守ろうとした。1973年には鄧小平が復帰し、経済の立て直しを任される。だが1976年1月に周恩来が死去すると、4月の清明節に天安門広場で周を悼む市民の集まりが政府批判に変わり、鎮圧された。その責任を負わされて、鄧小平は再び失脚した。
1976年9月9日、毛沢東が死去する。1か月後の10月6日、後を継いだ華国鋒らは、江青、張春橋、王洪文、姚文元の4人を逮捕した。「四人組」である。運動が正式に終わったと宣言されたのは1977年のことだった。

犠牲の規模は、今もはっきりしない。殺された人、自ら命を絶った人、迫害の中で死んだ人を合わせ、数十万から200万とする推計が多いが、それを上回る数字を挙げる研究もある。糾弾されて職や家族を失い、何年も拘禁された人の数は、さらに桁が違う。
1981年、共産党は「歴史決議」で、文化大革命を「指導者が誤って発動し」、反革命の集団に利用された、党と国家と人民に重大な災難をもたらした内乱だと総括した。毛については、功績が第一で誤りは第二だとして、その権威は残した。作家の巴金は、二度と繰り返さないために文化大革命の博物館を作るべきだと書いたが、国の博物館は作られていない。この総括の枠を超える議論は、今も中国国内では制限されている。その後の改革開放、そして天安門事件へと続く中国の道は、この10年の記憶を抜きにしては語れない。