「鉄のカーテン」演説

概要
チャーチルがヨーロッパを分ける線を名づけた。冷戦という言葉が現実になっていく。
場所
38.85°N -91.95°E · アメリカ合衆国・ミズーリ州
関わった人(1)
チャーチルAD1874年11月30日–AD1965年1月24日 · 演説本文
1945年5月、ヨーロッパの戦争は終わった。それから2か月もたたない7月、イギリスの総選挙で、戦争を勝利に導いた首相チャーチルの保守党は、労働党に大敗した。戦後の暮らしの立て直しと社会保障を訴えたアトリーの労働党に、有権者は票を投じた。チャーチルは70歳で野党の党首となった。
だが、チャーチルの目は戦後のヨーロッパに向いていた。ソ連軍がドイツへ攻め上る途中で解放した東ヨーロッパの国々では、ソ連の後ろ盾を得た共産党が力を伸ばしていた。ヤルタ会談では、ポーランドなどで自由な選挙を行うことが約束されていたが、その約束は守られそうになかった。チャーチルは戦争の終わりの直後から、アメリカの大統領トルーマンへの電報の中で、ソ連の前線に「鉄のカーテン」が降ろされつつあると警告していた。

1946年3月5日、チャーチルはアメリカ中西部ミズーリ州の小さな町フルトンにある、ウェストミンスター大学の壇上に立った。招きを仲立ちしたのは、同じミズーリ州出身の大統領ハリー・トルーマンである。トルーマンはワシントンから同じ列車でチャーチルとともにフルトンへ来て、演壇の脇に座っていた。演説の題は「平和の筋力」だった。
チャーチルは、勝利の後の世界には二つの危険があると語った。戦争と、暴政である。そしてこう続けた。「バルト海のシュチェチンから、アドリア海のトリエステまで、大陸を横切って鉄のカーテンが降ろされた」。その線の向こうには、ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ブカレスト、ソフィアといった中央・東ヨーロッパの古い都があり、それらはすべてソ連の勢力圏に入り、ますますモスクワの支配を受けつつある、と。

チャーチルは、ソ連が戦争を望んでいるとは思わないとも述べた。ソ連が望んでいるのは、戦争の果実と、力と主義の無限の拡大である。そして、ソ連が何より敬うのは力であり、弱さを最も軽んじる、と言った。そのうえで、英語を話す国々、つまりイギリスとアメリカが、軍事の協力まで含む「兄弟のような結びつき」を持つべきだと訴えた。いわゆる英米の「特別な関係」の考え方である。
演説への反応は、すぐには好意的ではなかった。ソ連はついこのあいだまで、ナチス・ドイツを倒すためにともに戦った同盟国である。アメリカの新聞の中には、チャーチルが新しい戦争をあおり、アメリカをイギリス帝国の利益のために利用しようとしていると批判するものもあった。トルーマンも、事前に原稿を読んでいたにもかかわらず、演説の中身に賛成したわけではないと公には距離を置いた。

モスクワの反応は激しかった。ヨシフ・スターリンは党の機関紙のインタビューで、チャーチルを、英語を話す民族だけが世界の運命を決めるべきだと説く人種論者だと非難し、ヒトラーになぞらえた。ソ連の側から見れば、東ヨーロッパの国々に友好的な政府を置くことは、二度にわたってドイツに攻め込まれた国の安全のための当然の備えだった。
けれども、アメリカの政府の内部では、すでに考え方が変わり始めていた。演説の2週間前には、モスクワのアメリカ大使館にいた外交官ジョージ・ケナンが、ソ連の行動の根にあるものを分析し、その膨張を長期にわたって押しとどめるべきだとする長い電報を本国に送っていた。同じ年には、イランの北部に居座るソ連軍の撤退をめぐる危機も起きている。
1年後の1947年3月、トルーマンは議会で、共産主義の圧力にさらされるギリシアとトルコへの援助を求め、自由な国々を支えるのがアメリカの務めだと述べた。トルーマン・ドクトリンである。同じ年にはマーシャル・プランが打ち出され、ヨーロッパは援助を受け入れる西と、拒む東に分かれていった。銃火を交えない対立を指す「冷戦」という言葉が広く使われるようになったのも、この1947年のことである。1948年のベルリン封鎖、1949年のNATOの結成を経て、チャーチルが言葉にした線は、ヨーロッパを分ける本物の境界になった。

鉄のカーテンという言い回しそのものは、チャーチルの発明ではない。劇場で火事のときに舞台と客席を隔てる防火の幕を指す言葉で、それまでにも比喩として使われていた。それでもフルトンの演説は、この言葉を、戦後の世界を説明する言葉として定着させた。チャーチルは1951年に再び首相となる。鉄のカーテンが開くのは、1989年のベルリンの壁の崩壊を待たなければならなかった。