光州民主化運動
概要
朴正熙の暗殺後に軍を握った全斗煥が戒厳令を広げ、光州の学生デモに空挺部隊を送った。市民が武器を取り、10日間街を持った。5月27日、戦車。公式の死者は165人、行方不明が多い。1996年に全斗煥は死刑判決を受け(翌年、無期懲役で確定)、1997年に特赦された。
場所
35.16°N 126.85°E · 韓国
関わった人(1)
全斗煥AD1931年1月18日–AD2021年11月23日 · 鎮圧本文
1979年10月26日、18年にわたって韓国を治めてきた大統領朴正熙が、宴席で側近の中央情報部長金載圭に撃たれて死んだ。独裁が突然終わり、韓国には民主化への期待が広がった。「ソウルの春」と呼ばれる時期である。だが12月12日、保安司令官の全斗煥が軍の中の同志と組んで、上官の戒厳司令官を逮捕し、軍の実権を握った。
1980年の春、民主化を求める学生のデモは全国に広がり、5月15日にはソウル駅の前に10万人が集まった。5月17日、全斗煥らは戒厳令を全国に広げ、政治活動を禁じ、大学を閉鎖した。野党の指導者金大中ら多くの政治家と活動家が捕えられた。金大中は全羅南道の出身で、その地方の人々にとって希望の象徴だった。

5月18日の朝、全羅南道の道庁がある光州の全南大学の正門前に、休校に抗議する学生たちが集まった。待ち構えていたのは、戒厳軍として送り込まれた空挺部隊である。兵士たちは棍棒で学生を殴りつけ、逃げる者を追って町の中にまで入り、通りがかった市民も見境なく殴り、銃剣で刺した。その残虐さに、市民の怒りが燃え上がった。
19日と20日、デモに加わる市民はふくれ上がった。20日の夜には、軍の暴力に憤ったタクシーとバスの運転手たちが、車列を組んでライトをつけ、クラクションを鳴らしながら道庁へ向かった。軍の暴行を報じない放送局は焼き打ちにあった。21日の午後、道庁前の広場で群衆と軍がにらみ合う中、軍は市民に向けて一斉に発砲し、数十人が倒れた。

市民は郊外の警察署や予備軍の武器庫から銃を取り出し、武装して「市民軍」を作った。その夕方、軍は町の外へ退いた。22日から26日までの5日間、光州は市民の手にあった。市民による収拾対策委員会が作られ、銃は集められて管理された。外への道は軍に封鎖されていたが、町の中では大きな略奪も強盗も起きず、女性たちは炊き出しの握り飯を配り、病院の前には献血の列ができた。
町を囲む軍の側では混乱も起きた。24日には、移動中の空挺部隊と別の部隊が互いを敵と誤って撃ち合い、兵士が死んでいる。市民の代表は軍と交渉し、武器を返す代わりに、軍の謝罪と、捕えられた人の釈放と、市民の犠牲への補償を求めた。だが交渉はまとまらず、武器を置くべきだという穏健派と、最後まで道庁を守るという若者たちの意見は割れた。

5月27日の午前4時、戦車を先頭に空挺部隊が町に入り、道庁を攻めた。最後まで残った市民軍の大部分は若者だった。その中心にいた30歳の尹祥源も、ここで撃たれて死んだ。夜明け前の町には、市民の皆さん、戒厳軍が攻めてきます、私たちを忘れないでください、と呼びかける女性の街頭放送が響いていたという。10日間の抗争は、こうして終わった。
政府の当初の発表では、市民の死者は百数十人だった。のちの認定では死者は165人、行方不明者は数十人、負傷者は3000人を超える。だが行方不明のまま遺体の見つからない人も多く、実際の犠牲はさらに多いとみられている。全斗煥の政府は、北朝鮮の工作員にそそのかされた暴徒の騒乱だと宣伝し、韓国の報道は厳しく統制された。外の世界に真実を伝えたのは、ドイツの公共放送の記者ユルゲン・ヒンツペーターらが命がけで撮って持ち出した映像だった。その経緯は、2017年の映画『タクシー運転手』に描かれている。
当時、韓国軍の作戦の指揮権の一部はアメリカ軍の司令官にあった。鎮圧に向かう部隊の移動をアメリカが認めたことは、光州の人々に深い不信を残し、80年代の韓国で反米感情が高まるきっかけの一つになった。
1980年9月、全斗煥は大統領になった。だが光州の記憶は、その後の民主化運動を支え続けた。1987年の六月民主抗争で軍事政権が大統領の直接選挙を受け入れると、1988年には国会で聴聞会が開かれ、事件は「光州民主化運動」と呼ばれるようになった。1995年、特別法が作られて真相の追及が始まり、1996年、全斗煥は反乱と内乱、収賄の罪で一審で死刑を言い渡された。控訴審で無期懲役に減らされ、1997年12月に特赦された。1997年、5月18日は国の記念日となり、2002年には犠牲者の眠る墓地が国立5・18民主墓地となった。2011年、関連の記録はユネスコの世界の記憶に登録された。全斗煥は2021年に90歳で死んだが、最後まで謝罪しなかった。
1982年、尹祥源と、工場の夜学で労働者に教えて1978年に亡くなった朴琪順の霊魂結婚式のために、一曲の歌が作られた。「あなたのための行進曲」である。この歌は韓国の民主化運動の歌となり、香港や台湾などアジア各地の抗議の場でも歌われた。光州の出身の作家ハン・ガンは、抗争で死んだ少年を描いた小説『少年が来る』を書き、2024年にノーベル文学賞を受けている。