人物

毛沢東

Mao Zedong
AD1893年12月26日 – AD1976年9月9日(享年82)
中華人民共和国重要度 5

概要

中国共産党を率いて建国した。大躍進と文化大革命で数千万の死を出したとされる。

関わったできごと(6)

長征AD1934年10月16日 · 遵義で指導権を延安整風AD1942年2月 · 始めた中華人民共和国の成立AD1949年10月1日 · 当人大躍進1958年 · 命令文化大革命1966年 · 発動ニクソン訪中AD1972年2月21日 · 会った

本文

1893年12月26日、湖南省の韶山という村で、農民の家に生まれた。父は小作から身を起こして土地を買い増し、米の商いもした働き者で、息子に厳しかった。毛は父と何度もぶつかり、池に飛び込むと脅して逆らったという話を、のちにアメリカの記者に語っている。14歳で親の決めた年上の娘と結婚させられたが、共に暮らすことを拒んだ。

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Wikimedia Commons 侯波(1924-2017)、孟庆彪(1925-1985) · Public domain

農民の家に生まれ、師範学校を出た。1911年の辛亥革命では、数か月ほど兵士になっている。その後、長沙の湖南第一師範学校で学び、新しい思想の雑誌を読み、仲間と勉強会を作った。体を鍛えるために冷水浴をし、雨の中を歩いたという。

図書館の助手として働きながら、共産主義に触れている。1918年、北京大学の図書館で働き、図書館長の李大釗のもとでマルクス主義を知った。翌年の五四運動の熱気の中で湖南に戻り、雑誌を出し、運動を組織した。1921年、上海で開かれた中国共産党の創立大会に、湖南の代表として加わった。出席者は十数人だった。

五四運動に関わる図版:Chinese protestors march against the Treaty of Versailles (May 4, 1919)
五四運動Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

党内で、当初は主流ではなかった。都市の労働者ではなく、農民を革命の主体にすべきだと主張した。1927年、湖南の農民運動を調べた報告書で、農民が地主を打ち倒す力をたたえた。同じ年、国民党の蒋介石が共産党員の弾圧に転じ、共産党は都市で壊滅的な打撃を受ける。毛は農民を率いた蜂起に失敗し、残兵を連れて江西の山奥、井岡山に逃れた。ここから農村に根拠地を作り、ゲリラ戦で戦うやり方が始まる。最初の妻の楊開慧は、1930年に国民党に捕らえられて処刑された。

江西に作った根拠地は広がったが、ソ連で学んだ若い指導者たちが党の中央を握ると、毛は軍の指揮から外された。国民党軍の大がかりな包囲で根拠地は追い詰められ、1934年10月、共産党の軍は江西を捨てて逃れはじめる。

毛沢東の肖像
毛沢東の肖像Wikimedia Commons The People's Republic of China Printing Office · Public domain

長征で、その主導権を握る。逃避行の途中、1935年1月に貴州の遵義で開かれた会議で、それまでの指導を批判し、軍事の指導権を得た。長征は、追撃を受けながら山脈や大河、湿原を越える1万キロ前後の移動になり、1年かけて陝西北部に着いた。江西を出たときの8万余りの主力のうち、着いたのは1万に満たなかったとされる。長征はのちに党の英雄伝説になり、語られる距離や場面には誇張も含まれている。

延安で勢力を回復し、日中戦争を経て内戦に勝った。1936年の西安事件で、蒋介石は部下の将軍に監禁され、共産党と再び手を結んで日本と戦うことを受け入れた。1937年の盧溝橋事件で日中戦争が始まると、共産党は日本軍の後方で勢力を広げた。毛は延安の洞窟の住まいで多くの論文を書き、中国の事情に合わせた革命の理論を作り上げる。1942年からの延安整風で党内の異論を抑え、自分の考えを党の指導思想に据えた。この運動では、多くの党員が厳しい取り調べと自己批判を強いられた。

西安事件に関わる図版:Zhang Xueliang, Yang Hucheng and Chiang Kai-shek
西安事件Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

日本の敗戦後、国民党との内戦に勝ち、1949年10月1日、北京の天安門の上で中華人民共和国の成立を宣言した。翌年、朝鮮戦争に兵を送り、アメリカ軍と戦った。長男の毛岸英はこの戦争で戦死している。

建国後の政策で、大躍進と文化大革命が挙げられる。1958年からの大躍進では、数年でイギリスに追いつくとして、農村の人々を人民公社にまとめ、裏庭の炉で鉄を作らせた。各地の幹部は収穫を水増しして報告し、国はそれをもとに穀物を取り立てた。その結果、大規模な飢饉が起き、死者は1500万人から4500万人と、推計に大きな幅がある。1959年、廬山の会議でこの政策を批判した国防相の彭徳懐は、失脚させられた。

失敗の後、毛は一歩退き、劉少奇や鄧小平が経済の立て直しを進めた。1966年、毛は文化大革命を起こし、党の中に資本主義の道を歩む者がいるとして、若者たちを紅衛兵として動員した。劉少奇は打倒されて獄中で死に、多くの知識人、教師、党幹部が批判集会で吊し上げられ、殺され、あるいは自ら命を絶った。寺院や文化財も壊された。死者は数十万から百数十万以上と推計され、こちらも幅が大きい。どちらも、数千万の人々の暮らしを壊し、多くの死を出した。

文化大革命に関わる図版:Mao Zedong 19661001
文化大革命Wikimedia Commons 孟昭瑞 · Public domain

晩年には、長く対立したアメリカに歩み寄った。1972年、ニクソン訪中を受け入れ、北京の書斎でニクソンと会談している。後継に指名していた林彪は、1971年にソ連へ逃げる途中、飛行機の墜落で死んだ。1976年1月に周恩来が死に、9月9日、毛も82歳で死んだ。1か月後、妻の江青ら「四人組」は逮捕される。

1981年、党が「功績が第一、誤りが第二」と総括した。功績を七、誤りを三とする言い方とも結びついて語られる。文化大革命は誤りだったと認めつつ、建国の指導者としての毛の地位は保たれた。その枠を超えた議論は、いまも制限されている。天安門には肖像が掲げられ、紙幣にも顔が刷られ、遺体は広場の記念堂に保存されている。

1913年の毛沢東
1913年の毛沢東Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

身近にいた人の回想には、夜更かしで、昼過ぎまで眠り、ベッドの上で古い歴史書を読みふける姿が描かれる。中国の古典と詩に通じ、自作の詩も多く残した。一方で、自分に異を唱える者を、かつての同志であっても容赦なく退けた。農民の国で革命を勝たせた戦略家であり、その国で、平時に最も多くの人を死なせた指導者でもある。

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