スプートニク1号
概要
ソ連が人類初の人工衛星を上げた。西側は技術で後れを取ったと衝撃を受け、宇宙開発競争が始まる。
場所
55.76°N 37.62°E · ロシア
関わった人(1)
ニキータ・フルシチョフAD1894年4月15日–AD1971年9月11日 · 第一書記本文
1957年から翌年にかけては、国際地球観測年と定められていた。世界の科学者が協力して地球と宇宙を調べる計画で、アメリカは1955年、この期間に人工衛星を打ち上げると発表していた。ソ連も同じ目標を掲げたが、西側ではほとんど本気にされなかった。
ソ連でロケットの開発を率いていたのは、セルゲイ・コロリョフである。彼は1930年代の粛清で逮捕され、シベリアの金鉱の収容所に送られた過去を持つ。その名は国家の機密とされ、生前に公にされることはなかった。コロリョフのチームは、アメリカまで核弾頭を届けるための大陸間弾道ミサイルR-7を開発し、1957年8月に初めて試験飛行を成功させた。コロリョフはこのロケットで衛星を打ち上げる許しを指導部から取りつけ、複雑な観測機器を積む本来の計画が遅れていたため、ごく簡単な衛星を急いで作らせた。

1957年10月4日、カザフスタンの草原の発射場から、R-7が打ち上げられた。軌道に乗ったのは、直径58センチ、重さ83キロ余りの金属の球だった。4本の細長いアンテナを持ち、中には電池と無線送信機が入っているだけで、ピー、ピーという単純な電波を出し続けた。地球を1周するのに約96分かかった。世界中のアマチュア無線家がその電波を受信し、夕暮れや明け方の空には、衛星と一緒に軌道に乗ったロケットの胴体が光の点となって動くのが見えた。
ソ連の新聞は、はじめは短い記事で伝えただけだった。だが世界の反響の大きさに気づいた第一書記ニキータ・フルシチョフは、この成功を社会主義の優位を示す宣伝として最大限に使った。1か月後の11月3日には、犬のライカを乗せたスプートニク2号を打ち上げた。生き物が初めて地球を回ったが、帰還の手段はなく、ライカは打ち上げから数時間で、熱のために死んだとされる。

アメリカは衝撃を受けた。衛星そのものは小さな球にすぎない。恐ろしいのは、それを軌道に乗せたロケットだった。同じロケットは、海の向こうからアメリカの都市に核弾頭を落とすことができる。二つの大洋に守られて安全だという感覚は、一夜にして崩れた。12月、アメリカは海軍のロケットで衛星を打ち上げようとしたが、テレビの中継の前で、ロケットは発射台からわずかに浮き上がって爆発した。新聞はこれを「失敗ニク」と嘲った。
アメリカが最初の衛星エクスプローラー1号を軌道に乗せたのは、1958年1月31日である。打ち上げたのは、ドイツから渡ってきたロケット技術者フォン・ブラウンを中心とする陸軍のチームだった。エクスプローラー1号は、地球を取り巻く強い放射線の帯を発見する成果を上げた。

スプートニクの衝撃は、アメリカの社会の仕組みを動かした。1958年、宇宙開発を一つにまとめるアメリカ航空宇宙局が作られ、国防総省には先端研究のための機関が置かれた。国防教育法が作られ、理科や数学、外国語を学ぶ学生に、連邦の奨学金や融資が出されるようになった。学校の教科書や教え方も見直された。1960年の大統領選挙では、ソ連にミサイルで後れを取っているという「ミサイル・ギャップ」が争点の一つになった。
この国防総省の研究機関が、のちに研究者どうしが離れた場所の計算機を共有するための通信網を作らせた。これが1969年のARPANETの最初の通信につながり、インターネットの源流の一つになる。核攻撃を受けても生き残る通信網を作るためだった、という説明がよく語られるが、その種の研究は同じ時期に別に行われていたもので、この通信網そのものの目的は研究資源の共有にあったとされる。

スプートニク1号は、3週間ほどで電池が切れて沈黙し、1958年1月、大気圏に落ちて燃え尽きた。だがそれが開いた宇宙開発の競争は、その後も激しくなった。1961年、ソ連はガガーリンを乗せた宇宙船で人類初の有人飛行を果たし(人が初めて宇宙へ)、ジョン・F・ケネディは同じ年、10年以内に人を月に送ると宣言した。その約束は1969年のアポロ11号の月面着陸で果たされる。
宇宙をめぐる競争は、核兵器とミサイルの競争と表裏一体だった。一方で、気象衛星や通信衛星、衛星による位置の測定など、いまの暮らしを支える技術の多くも、この競争の中から生まれた。直径58センチの小さな球が、物語「冷戦」の舞台を宇宙にまで広げたのである。