ジョージ・マーシャル
概要
第二次大戦のアメリカ陸軍参謀総長。800万人の軍を作り、アイゼンハワーを選んだ。チャーチルが「勝利の組織者」。国務長官。マーシャル・プラン。国防長官。朝鮮。マッカーシーに「反逆者」と言われた。1953年、軍人で唯一のノーベル平和賞。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
マーシャル・プランAD1947年6月5日 · 提案本文
ジョージ・キャトレット・マーシャルは、第二次世界大戦のあいだアメリカ陸軍の参謀総長を務め、戦後は国務長官としてヨーロッパの復興計画を打ち出した軍人である。1880年12月31日、ペンシルヴェニア州の炭鉱と製鉄の町ユニオンタウンに生まれた。父は石炭とコークスの商売をしていた。成績は目立たなかったが、ヴァージニア軍事学校に進み、1902年に少尉に任官した。最初の任地はアメリカが支配して間もないフィリピンだった。
彼の名が軍の中で知られるようになったのは、第一次世界大戦のときである。1917年、マーシャルは第1師団の作戦参謀としてフランスに渡った。視察に来た遠征軍総司令官パーシングが、師団の訓練の遅れを師団長の前で厳しく叱りつけると、まだ少佐だったマーシャルはパーシングの腕をつかみ、遅れは総司令部の側の問題だと言い返した。周りは彼の経歴が終わったと思ったが、パーシングは逆に彼を自分の司令部に引き抜いた。1918年秋のムーズ・アルゴンヌ攻勢では、60万人の兵と装備を短い期間で別の戦線へ移す計画を立て、「魔術師」と呼ばれた。

戦後のマーシャルは、パーシングの副官を務めたあと、中国の天津の駐屯部隊を経て、ジョージア州のフォート・ベニングの歩兵学校の副校長になった。ここで彼は、複雑な命令より単純で柔軟な指揮を教え、のちに大戦で軍団や軍を率いるブラッドレーやリッジウェイら多くの将校を育てた。昇進は遅く、中佐の階級に長くとどまった。1938年、参謀次長としてホワイトハウスの会議に出たとき、彼はローズヴェルト大統領(フランクリン・ローズヴェルト)の案に、まったく同意できませんと正面から反対した。周りはまたも彼の終わりを予想したが、大統領は翌年、序列の上の将官を何人も飛び越えて彼を参謀総長に選んだ。
就任の日は1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに攻め込んだ日だった(第二次世界大戦)。そのときのアメリカ陸軍は20万人に満たず、世界で十数番目の規模にすぎなかった。マーシャルは議会を説いて徴兵制を通し、訓練の仕組みを作り、古い将校を退かせて若い指揮官を引き上げた。終戦までに陸軍は航空隊を含めて800万人を超える。日本の真珠湾攻撃のあと、彼はまだ無名に近かったドワイト・アイゼンハワーを作戦部に呼び、やがてヨーロッパの司令官に送り出した。ドイツを先に倒すという戦略を立て、イギリスと議論を重ねながら、北フランスへの上陸作戦を一貫して主張したのも彼である。

その上陸作戦の司令官には、誰もがマーシャルを予想していた。本人も望んでいたとされる。だが1943年の暮れ、ローズヴェルトは、あなたがワシントンにいないと私は安心して眠れない、と言って、司令官にアイゼンハワーを選んだ。マーシャルは不満を口にせず、ワシントンで世界中の戦線への兵と物資の割り振りを続けた。チャーチルは戦後、彼を「勝利の組織者」と呼んだ。
1945年11月に参謀総長を退くと、休む間もなくハリー・トルーマン大統領から中国への特使を頼まれた。蒋介石の国民党と毛沢東の共産党の内戦を止め、連合政府を作らせるという任務だった。マーシャルは一年余り中国にとどまって停戦をまとめかけたが、双方の不信は解けず、1947年1月に失敗を認めて帰国した。
帰国してすぐ、彼は国務長官に就いた。戦争の終わったヨーロッパでは、食糧と燃料が足りず、厳しい冬が人々を苦しめ、共産党の勢力が伸びていた。1947年6月5日、マーシャルはハーヴァード大学の卒業式で短い演説を行い、アメリカがヨーロッパの復興を助ける用意があること、ただし計画はヨーロッパの国々が自分たちで作るべきことを述べた。演説は十数分ほどのものだった。これがヨーロッパ復興計画、マーシャル・プランの出発点になる。1948年から4年ほどで西ヨーロッパに120億ドルを超える援助が流れ込み、その経済は立ち直っていった。ソ連と東欧の国々は参加を拒み、ヨーロッパは東西に分かれていく。トルーマンはのちに、自分の名を付けていれば共和党の多い議会を通らなかっただろう、と計画の名の由来を語っている。
腎臓の手術のため1949年1月に国務長官を退いたマーシャルは、赤十字の総裁を務めたが、1950年に朝鮮戦争が始まると、国防長官として呼び戻された。1951年4月、トルーマンがマッカーサーを解任したとき、マーシャルもそれを支持した。その年の6月、上院議員ジョゼフ・マッカーシーは長い演説でマーシャルを攻撃し、中国を共産党に渡した張本人であり、人類の歴史に例のない大きな陰謀の一部だとまで言った。翌年の大統領選挙では、マーシャルに引き立てられた当のアイゼンハワーが、マッカーシーの地元ウィスコンシンでの演説から、マーシャルを擁護する一節を削った。マーシャルはこれについて、何も語らなかった。

1953年、マーシャルはノーベル平和賞を受けた。職業軍人がこの賞を受けたのは彼が初めてで、いまも唯一とされる。オスロでの講演で彼は、兵士が平和の賞を受けることに異論があるのは知っているが、自分は戦争の恐ろしさと悲劇を誰よりも知っている、と述べた。
マーシャルは政治の場に出ることを嫌い、大統領選挙への出馬を勧められても応じず、多額の申し出があっても回想録を書かなかった。1959年10月16日、ワシントンのウォルター・リード陸軍病院で死んだ。78歳だった。本人の望みどおり葬儀は簡素に行われ、アーリントン国立墓地に葬られた。華やかな戦場の指揮官ではなく、軍を作り、戦争を組み立て、戦後の世界の形を整えた人として、マーシャルは記憶されている。