ローザ・パークス
概要
バスで席を譲らなかった。偶然の一件のように語られるが、本人は以前から運動に関わっていた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
モンゴメリー・バス・ボイコット1955年 · きっかけ本文
1955年12月1日の夕方、42歳のお針子が仕事帰りのバスで、白人に席を譲らなかった。この一件は、疲れた女性がたまたま座り続けた、という形でよく語られる。本人は自伝でそれを否定している。体は疲れていなかった。疲れていたのは、譲り続けることに対してだった、と書いた。

生まれは1913年2月4日、アラバマ州タスキーギ。旧姓はマッコーリーという。両親は早くに別れ、母とともに祖父母の農場で育った。母は教師だった。白人至上主義の団体クー・クラックス・クランが夜に黒人の家を襲っていた頃、祖父が銃を手に戸口で夜明かしをし、幼い彼女もその横で起きていた、と後に回想している。
黒人の子が通える学校は限られ、彼女はモンゴメリーの女子実業学校などで学んだが、祖母と母の看病のために高校を中退している。1932年、理髪師のレイモンド・パークスと結婚した。夫は黒人の権利を求める活動をしており、その勧めもあって翌年、高校の卒業資格を取った。当時のアラバマの黒人としては多くない学歴だった。

1943年、全米黒人地位向上協会(NAACP)のモンゴメリー支部に入り、書記になった。仕事は地味で、暴行や差別の被害を聞き取って記録することだった。白人の男たちに襲われた黒人女性の事件を調べ、告発の運動を組んだこともある。有権者登録にも何度も挑み、三度目でようやく登録できた。1955年の夏には、テネシー州のハイランダー・フォークスクールで、人種隔離をどう崩すかを学ぶ研修を受けている。席を立たなかった日の、半年足らず前である。
モンゴメリーのバスは、前方が白人席、後方が黒人席に分けられ、中ほどは運転手の判断で入れ替えられた。運賃は前の扉で払い、いったん降りて後ろの扉から乗り直すよう求められることもあった。その日、パークスは黒人が座ってよい列の先頭に座っていた。白人の乗客が増えると、運転手のジェームズ・ブレイクはその列の4人に立つよう命じた。3人は立ち、彼女だけが動かなかった。ブレイクは、12年前にも彼女をバスから降ろしたことのある運転手だった。
逮捕され、市の条例違反で起訴された。12月5日の裁判で有罪とされ、罰金10ドルと訴訟費用4ドルを科された。同じ日、黒人住民は市バスに乗るのをやめた(モンゴメリー・バス・ボイコット)。運動をまとめる会が作られ、その代表に、町に来て1年余りの26歳の牧師が選ばれた。キング牧師である。ボイコットは381日続き、1956年11月、連邦最高裁がバスの人種隔離を違憲とする判断を支持して終わった。この裁判の原告はパークスではなく、先に同じように逮捕されていた別の女性たちだった。

その一人が、15歳の高校生クローデット・コルヴィンである。パークスより9か月早い1955年3月、同じように席を立たずに逮捕された。運動の指導者たちは、彼女を裁判闘争の顔にしなかった。気性が激しいとみられたこと、のちに未婚で妊娠したことが理由とされる。運動は、白人社会の非難をかわせる人物を選んだ。パークスは、物静かで信仰があつく、地域で信頼されていた。そのことを本人も知っていた。
象徴になった代償は大きかった。夫婦とも職を失い、脅迫の電話が続いた。1957年、一家はデトロイトへ移る。北部でも暮らしは楽ではなく、長く経済的に苦しんだ。1965年から1988年まで、下院議員ジョン・コンヤーズの事務所で働いた。その間も、公民権運動の集会や、南アフリカのアパルトヘイトに反対する運動に加わっている。

晩年になって栄誉が重なった。1996年に大統領自由勲章、1999年に議会名誉黄金勲章を受けた。一方で、1994年には81歳で自宅に押し入った強盗に殴られ、金を奪われている。2005年10月24日、デトロイトで92歳で亡くなった。遺体は連邦議会議事堂の円形広間に安置され、市民が別れを告げた。女性としては初めてのことだった。
「公民権運動の母」と呼ばれる。だが、偶然の勇気という語り方は、10年以上の地道な活動と、運動の側の戦略的な選択を見えなくする。彼女の一日は、前年のブラウン判決や、同じ年の夏のエメット・ティルの殺害に続く、長い積み重ねの一場面だった。その先に公民権法がある。象徴として語られる一日の後に、語られない数十年がある。