ムルロアの核実験
概要
フランスが30年で193回行った。本国から見て地球のほぼ反対側を選んでいる。抗議船を沈めた事件(レインボー・ウォリアー号)が、国家によるテロとして問題になった。
場所
-21.83°N -138.88°E · フランス領ポリネシア
本文
フランスが核兵器を持ったのは1960年である。最初の実験は、当時フランス領だったアルジェリアのサハラ砂漠で行われた。だが、アルジェリア戦争を経て1962年にアルジェリアが独立すると、砂漠の実験場はいずれ明け渡さなければならなくなった。代わりに選ばれたのが、南太平洋のフランス領ポリネシアにある二つの環礁、ムルロアとファンガタウファだった。タヒチから南東へ1200キロほど、本国からは地球のほぼ反対側にあたる。
核を持つことは、シャルル・ド・ゴールにとって国の独立そのものだった。アメリカにもソ連にも頼らずに国を守る、という考えである。1963年に米英ソが部分的核実験禁止条約を結んだときも、フランスは加わらなかった。実験場の建設が進み、1966年7月、ムルロアで最初の核実験が行われた。同じ年の9月にはド・ゴール自身が艦上から実験を見ている。
初めの8年間は、大気圏内で行われた。爆弾を気球に吊るしたり、船に載せたりして爆発させた。キノコ雲から降る放射性の塵は、風に乗って周りの島々に落ちた。1968年には水爆の実験にも成功している。周辺の国々は抗議を強めた。1973年、オーストラリアとニュージーランドはフランスを国際司法裁判所に訴え、ニュージーランドは抗議のために軍艦を実験海域へ送った。フランスは翌1974年を最後に大気圏内の実験をやめ、1975年からは環礁の地下に穴を掘って爆発させる方式に切り替えた。
地下に移っても、問題は消えなかった。環礁は珊瑚の岩でできていて、くり返しの爆発で岩盤にひびが入ったと指摘された。放射性物質が海へしみ出すのではないかという懸念は、いまも完全には晴れていない。

1985年7月10日、ニュージーランドのオークランド港で、環境団体グリーンピースの船レインボー・ウォリアー号が爆破されて沈んだ。船はムルロアへの抗議航海に向かう直前だった。乗っていた写真家のフェルナンド・ペレイラが死んだ。逮捕されたのは、フランスの対外情報機関の工作員だった。フランス政府は初め関与を否定したが、やがて認め、国防相が辞任した(レインボー・ウォリアー号の爆破)。同盟国の港で、国家が民間の船を沈めた事件である。ニュージーランドはこれを機に非核の立場を固め、1987年には核兵器を積んだ船の寄港を禁じる法律を作った(ニュージーランドの非核法)。
1992年、ミッテラン大統領は実験を一時停止した。冷戦が終わり、核実験を全面的に禁じる条約の交渉が始まろうとしていた。ところが1995年、就任したばかりのシラク大統領が実験の再開を発表した。条約の前に最後のデータを取る、という理由だった。太平洋の国々だけでなく、日本やヨーロッパでも抗議が広がり、タヒチの中心地パペーテでは暴動が起きた。実験は翌1996年1月まで6回行われ、それが最後になった。

1966年から1996年までの30年間に、ムルロアとファンガタウファで行われた核実験は193回にのぼる。そのうち46回が大気圏内だった。フランスは1996年に包括的核実験禁止条約に署名し、実験場を閉じた。
残されたのは、島の人々の健康の問題だった。フランスは長く、実験は安全に管理されていたと説明してきた。被曝した人への補償の法律ができたのは2010年である。初めは認められる人がごく少なく、その後、条件が見直されてきた。2021年にはマクロン大統領がポリネシアを訪れ、国はポリネシアに負い目がある、という趣旨を述べている。同じ太平洋で、アメリカが行ったビキニ環礁の核実験と並ぶ、核の時代の傷跡である。