概要
1956年6月28日、ポーランド西部のポズナンで、機関車などを作る大工場の労働者たちが、給料の引き下げとノルマの引き上げに抗議して街に出た。「パンをよこせ」の叫びは、やがて「自由を」「ロシア人は出て行け」に変わる。群衆は刑務所や秘密警察の建物を襲い、軍は戦車を出して鎮圧した。死者は五十人を超えた。この年の2月、フルシチョフがスターリンを批判しており、東欧じゅうが揺れていた。10月、ポーランドでは改革派のゴムウカが指導者に返り咲き、その動きはハンガリー動乱へ連なった。
場所
52.41°N 16.93°E · ポーランド
本文
戦後のポーランドは、ソ連の手本にならった重工業の急速な拡大を進めた。工場の労働者には、達成しなければならない量の目標、ノルマが課された。物価は上がり、店に物は無く、給料は実際には下がり続けていた。
1956年2月、モスクワの党大会で、フルシチョフはスターリンの罪を告発した(フルシチョフの秘密報告)。その中身は東欧に伝わり、恐れで押さえつけられていた人々の口が開きはじめる。ポーランドの党の指導者ビェルトは、モスクワで急死していた。
ポズナンのツェギェルスキ工場(当時の名はスターリン工場)の労働者は、不当に取られた税の返還とノルマの見直しを、何か月も求めてきた。代表団はワルシャワへ行ったが、約束は守られなかった。6月28日の朝、労働者たちは仕事を止めて、市の中心へ行進した。ほかの工場の人々も加わり、十万人ほどが集まった。そこでは、ちょうど国際見本市が開かれていて、外国の客もいた。
要求は、パンと給料から、自由と宗教と、ソ連からの独立へ広がった。群衆の一部は刑務所を開け、武器を奪い、秘密警察の建物を囲んだ。撃ち合いが始まる。政府は1万人の兵と数百台の戦車を送り、翌日までに鎮圧した。死者は57人以上、13歳の少年も含まれる。
政府はこれを、外国の手先の仕業と非難した。しかし、秋までに党の中の空気は変わる。10月、スターリンの時代に投獄されていたゴムウカが党の第一書記に返り咲き、ソ連の指導者たちは戦車で脅しながらも、それを認めた。ポーランドの人々が勝ち取ったように見えたこの変化は、ハンガリーの人々を勇気づけ、10月23日のハンガリー動乱につながった。