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Event / できごと

中印戦争

Sino-Indian War
AD1962年10月20日 – AD1962年11月21日
期間を持つできごと重要度 3
ソビエト連邦中国インドモンゴルサウジアラビアイランインドネシアチベットパキスタンアフガニスタンビルマソマリア大英帝国タイ日本イエメンベトナムオマーンマレーシアラオスフィリピンカンボジア朝鮮民主主義人民共和国ネパール大韓民国アラブ首長国連邦スリランカAD1962年10月20日タワン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1962年10月20日の版図を描いています(27勢力)。

概要

インドと中国の国境は、ヒマラヤの山々の中で、イギリスの時代から決まらないままだった。西ではアクサイチンの高原に中国が道路を通し、東ではイギリスが引いたマクマホン・ラインを中国が認めていなかった。1959年のチベット動乱でダライ・ラマがインドへ逃れると、両国の仲は冷え込む。1962年10月20日、中国軍は東西で一斉に攻め込み、準備の無いインド軍を破った。一か月後、中国は一方的に停戦して兵を引いたが、アクサイチンは手放さなかった。非同盟を掲げたネルーの外交の挫折だった。

場所

タワン
27.59°N 91.86°E · インド・アルナーチャル・プラデーシュ州

関わった人(1)

ジャワハルラール・ネルーAD1889年11月14日–AD1964年5月27日 · 首相

本文

ヒマラヤの国境は、イギリスの時代から、はっきり決まっていなかった。西のラダックの奥のアクサイチンは、人の住まない高い荒れ地で、イギリスは地図の上でさまざまな線を引いてきた。東では、1914年にイギリスとチベットの代表がシムラで引いたマクマホン・ラインを、中国は認めていなかった。

1950年代、中国は新疆とチベットを結ぶ道路を、アクサイチンを通して作った。インドがそれを知ったのは、完成した後だった。1959年、チベット動乱のあとダライ・ラマ14世がインドに逃れ、亡命政府を置くと、中国は強く反発した。首相のジャワハルラール・ネルーは、国境の問題で譲らず、係争地に小さな拠点を次々に置いて、中国の側へ押し出す方針をとった。中国が本気で戦うことはないと見ていた。

1962年10月20日、中国軍は、西のアクサイチンと東のタワンの方面で、同時に攻撃を始めた。高地に慣れ、準備を整えた中国軍に対し、インド軍は冬の装備も兵器も足りず、各地で崩れた。東では、中国軍はアッサムの平野の手前まで進んだ。インドは慌ててアメリカとイギリスに助けを求める。

11月21日、中国は一方的に停戦を宣言し、東では兵をマクマホン・ラインの北まで引いた。しかし西のアクサイチンは押さえたままだった。インドの死者は千人を超え、数千人が捕虜になった。バンドン会議の頃から中国との友好を唱えてきたネルーの威信は大きく傷つき、2年後に彼は亡くなる。インドは軍の立て直しを急ぎ、国境の問題はいまも解決していない。2020年にも、ラダックで両国の兵が衝突して死者が出た。

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