概要
インドと中国の国境は、ヒマラヤの山々の中で、イギリスの時代から決まらないままだった。西ではアクサイチンの高原に中国が道路を通し、東ではイギリスが引いたマクマホン・ラインを中国が認めていなかった。1959年のチベット動乱でダライ・ラマがインドへ逃れると、両国の仲は冷え込む。1962年10月20日、中国軍は東西で一斉に攻め込み、準備の無いインド軍を破った。一か月後、中国は一方的に停戦して兵を引いたが、アクサイチンは手放さなかった。非同盟を掲げたネルーの外交の挫折だった。
場所
27.59°N 91.86°E · インド・アルナーチャル・プラデーシュ州
関わった人(1)
ジャワハルラール・ネルーAD1889年11月14日–AD1964年5月27日 · 首相本文
ヒマラヤの国境は、イギリスの時代から、はっきり決まっていなかった。西のラダックの奥のアクサイチンは、人の住まない高い荒れ地で、イギリスは地図の上でさまざまな線を引いてきた。東では、1914年にイギリスとチベットの代表がシムラで引いたマクマホン・ラインを、中国は認めていなかった。
1950年代、中国は新疆とチベットを結ぶ道路を、アクサイチンを通して作った。インドがそれを知ったのは、完成した後だった。1959年、チベット動乱のあとダライ・ラマ14世がインドに逃れ、亡命政府を置くと、中国は強く反発した。首相のジャワハルラール・ネルーは、国境の問題で譲らず、係争地に小さな拠点を次々に置いて、中国の側へ押し出す方針をとった。中国が本気で戦うことはないと見ていた。
1962年10月20日、中国軍は、西のアクサイチンと東のタワンの方面で、同時に攻撃を始めた。高地に慣れ、準備を整えた中国軍に対し、インド軍は冬の装備も兵器も足りず、各地で崩れた。東では、中国軍はアッサムの平野の手前まで進んだ。インドは慌ててアメリカとイギリスに助けを求める。
11月21日、中国は一方的に停戦を宣言し、東では兵をマクマホン・ラインの北まで引いた。しかし西のアクサイチンは押さえたままだった。インドの死者は千人を超え、数千人が捕虜になった。バンドン会議の頃から中国との友好を唱えてきたネルーの威信は大きく傷つき、2年後に彼は亡くなる。インドは軍の立て直しを急ぎ、国境の問題はいまも解決していない。2020年にも、ラダックで両国の兵が衝突して死者が出た。