人物

アレクサンデル・ドゥプチェク

Alexander Dubček
AD1921年11月27日 – AD1992年11月7日(享年70)
チェコスロヴァキア重要度 4

概要

スロヴァキア人。ソ連で育った。1968年1月、第一書記。「人間の顔をした社会主義」。8月、モスクワに連れて行かれた。翌年解任、森林局の役人。20年。1989年11月、ヴァーツラフ広場のバルコニーにハヴェルと。連邦議会議長。1992年、交通事故で死んだ。国が割れる2か月前。

関わったできごと(1)

プラハの春AD1968年8月21日 · 改革

本文

アレクサンデル・ドゥプチェクは、1921年11月27日、スロヴァキア西部の村ウフロヴェツで生まれた。父は家具職人で、若い頃アメリカのシカゴで働き、そこで社会主義者になって帰国していた。

1925年、ビシュケクに住んでいたドゥプチェク一家。左端の少年がアレクサンデル
1925年、ビシュケクに住んでいたドゥプチェク一家。左端の少年がアレクサンデルWikimedia Commons Soviet archive · Public domain

1925年、一家はソ連に移った。キルギスの協同組合に入植したチェコスロヴァキア人の一団に加わったのである。ドゥプチェクは少年時代を、中央アジアのピシュペク(いまのビシュケク)と、のちにロシアのゴーリキーで過ごした。スターリンの粛清が激しくなった1938年、一家はチェコスロヴァキアに戻った。

翌1939年、ドイツの保護下で生まれたスロヴァキア国の中で、彼は地下の共産党に入った。1944年のスロヴァキア民衆蜂起に加わって二度負傷し、兄はこの戦いで戦死した。戦後は党の地方組織で着実に地位を上げ、1955年から3年間、モスクワの党高級学校で学んだ。1963年、スロヴァキア共産党の第一書記になった。

1968年1月5日、ドゥプチェクはチェコスロヴァキア共産党の第一書記に選ばれた。強硬なノヴォトニーへの不満が党内で高まり、スロヴァキア人の彼が妥協の候補として押し上げられたのである。穏やかで笑顔の多い46歳の指導者は、たちまち国民の人気を集めた。4月、党は「行動綱領」を出し、言論の自由、経済の改革、スロヴァキアの自治を約束した。検閲は事実上なくなり、新聞もラジオも自由に政府を批判し始めた。共産党の支配は保ちながら、人々の自由を広げる「人間の顔をした社会主義」である(プラハの春)。

プラハの春に関わる図版:10 Soviet Invasion of Czechoslovakia - Flickr - The Central Intelligence Agency
プラハの春Wikimedia Commons The Central Intelligence Agency · Public domain

ソ連のレオニード・ブレジネフとワルシャワ条約機構の国々は、改革が他国に広がることを恐れた。7月末にはソ連との国境の町チエルナで、8月3日にはブラチスラヴァで会談が開かれ、ドゥプチェクは同盟から離れないと約束した。しかし8月20日の夜、ソ連など5か国の軍隊が国境を越えた。

ドゥプチェクは党本部で捕らえられ、モスクワへ連行された。数日の交渉ののち、改革を事実上撤回するモスクワ議定書に署名させられた。帰国後のラジオ演説で、彼の声は何度も途切れた。

アレクサンデル・ドゥプチェク(1968年9月)
アレクサンデル・ドゥプチェク(1968年9月)Wikimedia Commons National Archives (archive.org) · Public domain

1969年4月、ドゥプチェクは第一書記を退き、グスターフ・フサークが後を継いだ。連邦議会の議長、トルコ大使と遠ざけられ、1970年には党から除名された。その後の約20年、彼はブラチスラヴァの森林局で事務職員として働いた。秘密警察が常に彼を見張り、来客も手紙も監視された。改革の時代は「正常化」の名で塗りつぶされ、ドゥプチェクの名は公の場から消えた。

1980年代の後半、ソ連でゴルバチョフの改革が始まると、彼の名が再び語られるようになった。1988年、イタリアのボローニャ大学から名誉博士号を受け、20年ぶりに外国に出て記者の取材に答えた。1989年11月、プラハで学生のデモからビロード革命が始まった。11月24日、ヴァーツラフ広場を見下ろすバルコニーに、ヴァーツラフ・ハヴェルとともにドゥプチェクが姿を見せると、広場を埋めた群衆は歓声を上げた。12月28日、彼は連邦議会の議長に選ばれ、翌日、議会はハヴェルを大統領に選んだ。

テオドル・バニークによるドゥプチェクの胸像
テオドル・バニークによるドゥプチェクの胸像Wikimedia Commons Ľudmila Cvengrošová (sculptor) Peter Zelizňák (photo) · Public domain

だが、広場の人々が求めていたのは改良された社会主義ではなかった。ドゥプチェクは敬意を払われながらも、政治の中心からは外れていった。1992年、スロヴァキア社会民主党の党首になったが、9月1日、乗っていた車がプラハとブラチスラヴァを結ぶ高速道路で道を外れて転落し、重傷を負った。2か月あまり入院したのち、11月7日に死んだ。70歳だった。暗殺を疑う声もあり、のちに調べ直されたが、事故ではないことを示す証拠は見つかっていない。

彼が死んで2か月足らずの1993年1月1日、チェコスロヴァキアはチェコとスロヴァキアに分かれた。社会主義に人間の顔を持たせられると最後まで信じた人は、国が二つに割れる直前に世を去った。

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