ピッグス湾事件

概要
CIAが訓練した亡命キューバ人1400人が上陸し、3日で敗れ、1100人あまりが捕まった。ケネディは空爆を減らし、艦隊を出さなかった。「私が愚かだった」。カストロはソ連に寄り、翌年ミサイルが来た。捕虜は薬と食糧5300万ドルと交換された。
場所
22.18°N -81.15°E · キューバ
関わった人(2)
ジョン・F・ケネディAD1917年5月29日–AD1963年11月22日 · 認めて後悔したフィデル・カストロAD1926年8月13日–AD2016年11月25日 · 退けた本文
1959年1月、フィデル・カストロの率いる革命軍がハバナに入り、親米のバティスタ政権が倒れた(キューバ革命)。新しい政府は農地を改革し、アメリカ企業の持つ製糖所や石油精製所を国のものにしていく。アメリカは砂糖の輸入を止め、キューバはソ連に石油と買い手を求めた。フロリダの沖わずか150キロほどに、ソ連と手を結ぶ国ができつつあった。
1960年3月、アイゼンハワー大統領は、中央情報局(CIA)に、亡命したキューバ人を集めて訓練し、カストロを倒す計画を承認した。担当したのはリチャード・ビッセルで、長官のアレン・ダレスがそれを支えた。手本にしたのは、1954年にグアテマラの左派政権を、少数の亡命者の部隊と宣伝で倒した成功である。亡命者たちはグアテマラの山中で訓練を受け、部隊は2506旅団と名乗った。隊員の認識番号にちなむ名だった。

1961年1月、ジョン・F・ケネディが大統領に就任したとき、計画はほとんど出来上がっていた。若い大統領は、前の政権から引き継いだ作戦をやめれば弱腰と見られることを恐れた。一方で、アメリカが関わったことは隠したかった。そこで上陸地は、人目につきやすい南岸の町トリニダードから、人の少ないサパタ湿地のコチーノス湾、英語でいうピッグス湾に移された。湿地に囲まれた浜は守りやすいが、作戦が失敗したときに山へ逃げ込むという逃げ道は、これで失われた。
4月15日、キューバ空軍の機体に見せかけて塗装したB-26爆撃機8機が、キューバの飛行場を襲った。キューバ空軍の中から反乱が起きた、という筋書きだった。だが、地上の機体はすべては壊れなかった。国連では、アメリカの国連大使アドレー・スティーヴンソンが、筋書きどおりの説明をそのまま述べ、のちに作り話だったと知って面目を失った。関与が明るみに出るのを恐れたケネディは、上陸の朝に予定されていた二度目の空爆を取りやめさせた。

4月17日の未明、およそ1400人の旅団がヒロン浜とラルガ浜に上陸した。偵察では海藻と見られていた珊瑚礁に上陸艇がつかえ、作業は遅れた。夜が明けると、生き残っていたキューバ空軍の戦闘機と練習機が現れ、弾薬と通信機を積んだ補給船を沈めた。期待されていた住民の蜂起は起きなかった。キューバ政府は侵攻の直前から、反政府の疑いのある人々を数万人規模で一斉に拘束していた。
カストロは自ら現地に入り、近くの製糖所に司令部を置いて反撃を指揮した。民兵と正規軍が湿地を貫く一本道を進み、浜の旅団を囲んでいく。旅団は空からの援護を求めたが、ケネディは、アメリカの軍が表に出ることを最後まで許さなかった。沖にはアメリカ海軍の空母がいたが、戦いに加わることはなかった。4月19日の午後、旅団は弾薬が尽きて戦いをやめた。旅団の死者は100人あまり、捕虜は1100人を超えた。キューバ側の死者も100人を大きく超えたとされるが、数には幅がある。

ケネディは側近に、なぜこれほど愚かなことをしてしまったのか、と嘆いたと伝えられる。4月21日の記者会見では「勝利には百人の父親がいるが、敗北は孤児である」と述べ、責任は自分にあると認めた。意外なことに、世論調査での支持率はかえって上がった。ダレスとビッセルは、その年の終わりから翌年の初めにかけて職を退いた。ケネディは以後、軍や情報機関の専門家の進言を鵜呑みにしなくなったといわれ、それが翌年の危機での慎重さにつながったとも評される。
捕虜は裁判にかけられた。1962年12月、アメリカの民間の募金による医薬品と食料およそ5300万ドル分と引き換えに、彼らは釈放された。その月の末、マイアミの競技場でケネディ夫妻は帰ってきた旅団を迎え、旅団の旗を受け取って、この旗はいつか自由なハバナで返す、と約束した。その約束が果たされることはなかった。
失敗の影響は大きかった。侵攻の前日、カストロは空爆の犠牲者を弔う演説で、この革命は社会主義の革命である、と初めて宣言していた。侵攻を退けたことで、カストロの立場は国内で揺るぎないものになり、キューバはソ連へいっそう近づく。アメリカがまた来ると考えたキューバと、それに応えたソ連は、島に核ミサイルを運び込む。1962年10月のキューバ危機である。アメリカの側も諦めなかった。1961年の秋からマングース作戦と呼ばれる秘密工作が始まり、のちの議会の調査では、CIAがマフィアと組んでカストロの暗殺を何度も企てていたことが明らかになった。キューバ側は、その回数を600回を超えると数えている。

キューバではこの戦いを「ヒロン浜の勝利」と呼び、帝国主義に対するラテンアメリカで最初の勝利として、浜の近くに博物館を建てている。アメリカでは「ピッグス湾」の名で、情報機関の見込みと政治の都合が食い違ったときに何が起きるかを示す、失敗の代名詞として語られている。湾の名のコチーノは豚の意味だが、この近くの海にいる魚の名だという説もある。