できごと

カンボジアの大量虐殺

Cambodian genocide
1975年 – 1979年
期間を持つできごと重要度 5
カンボジアの大量虐殺に関わる図版:Skulls from the killing fields
Skulls from the killing fields Wikimedia Commons Public domain

概要

都市を空にし、知識人を殺した。人口の2割近くが失われたとされる。

場所

プノンペン
11.56°N 104.93°E · カンボジア

本文

1950年代から60年代のカンボジアは、国王から政治家に転じたシハヌークのもとで、隣のベトナムの戦争に巻き込まれまいと中立を掲げていた。しかしベトナム戦争が激しくなると、北ベトナムの軍はカンボジア東部の国境地帯を補給路や拠点に使った。アメリカは1969年から、この地域をひそかに爆撃し始めた。

1970年、シハヌークが外遊している間に、親米派のロン・ノル将軍がクーデターで政権を奪った。アメリカの爆撃はさらに広がり、1973年までに大量の爆弾が農村に落とされた。家や家族を失った農民の中から、共産主義の勢力クメール・ルージュ(赤いクメール)に加わる者が増えた。追放されたシハヌークがクメール・ルージュと手を組んで支持を呼びかけたことも、農民の参加を後押しした。

毛沢東、彭真、ノロドム・シハヌーク、劉少奇 (1965).
毛沢東、彭真、ノロドム・シハヌーク、劉少奇 (1965).Wikimedia Commons Washington DC: Center of Military History · Public domain

クメール・ルージュを率いたのは、ポル・ポトと名乗るサロト・サルだった。1950年代にフランスへ留学し、そこで共産主義に触れた人物である。指導部には、同じようにフランスで学んだ知識人が多かった。彼らが目指したのは、都市も貨幣も市場もない、農民だけの完全に平等な社会だった。指導部は、かつてアンコールの寺院を築いたクメール帝国の栄光を引き合いに出し、人民の力だけで国を作り直せると説いた。

1975年4月17日、クメール・ルージュは首都プノンペンを制圧した。南ベトナムのサイゴン陥落の2週間前のことである。翌日から、黒い服の兵士たちは、アメリカの爆撃があるから数日だけ町を離れるようにと、200万人ともいわれる市民に退去を命じた。病院の患者も、老人も、子どもも、徒歩で農村へ向かわされた。途中で多くの人が死んだ。人々が町に戻ることはなかった。

プノンペン衛星写真
プノンペン衛星写真Wikimedia Commons Public domain

新しい国は民主カンプチアと名づけられた。指導部は自らを「オンカー(組織)」とだけ呼び、その正体を長く明かさなかった。貨幣は廃止され、銀行は爆破された。学校も病院も寺院も閉じられ、私有の財産は取り上げられた。家族はばらばらにされ、食事は集団でとらされた。この年を「零年」として、歴史を一から始めるとされた。

人々は「旧人民」と「新人民」に分けられた。早くからクメール・ルージュの支配下にいた農民が旧人民で、都市から追い出されてきた人々が新人民である。新人民は信用できない者として扱われ、最も過酷な労働に回され、配給も少なかった。

ワット・プノン
ワット・プノンWikimedia Commons Justin Watt · CC BY 3.0

真っ先に狙われたのは、旧政権の役人や兵士、そして知識人だった。教師、医師、技術者、僧侶、外国語を話せる者が殺された。眼鏡をかけている、手が柔らかいというだけで知識人と見なされた例も伝えられている。ベトナム系やチャム人のイスラーム教徒、中国系の人々など、少数の民族も迫害の的になった。

死はそれだけではなかった。指導部は、米の収穫を一気に何倍にも増やす計画を立て、人々を灌漑の工事や田畑で朝から晩まで働かせた。目標の米は取り立てられ、一部は輸出に回された。人々は飢えと過労と、薬の無い中での病で次々に倒れた。

やがて粛清の矛先は、クメール・ルージュ自身にも向いた。敵に通じているという疑いで、幹部やその家族が次々に捕らえられた。プノンペンの高校を改造したトゥールスレンの収容所(S21)には、1万数千人が送られて拷問を受け、ありもしない罪を自白させられた後に殺された。生き延びたのは、わずか十数人とされる。収容所では入った人々を一人ずつ写真に撮っており、その大量の顔写真が残された。処刑の多くは郊外のチュンエクなどで行われ、そうした場所は「キリング・フィールド」と呼ばれる。

4年たらずの間に失われた命は、150万から200万とされる。当時の人口は約800万人だったから、2割近くにあたる。

終わらせたのは、隣国ベトナムだった。クメール・ルージュは国境でベトナムと衝突を繰り返していた。1978年12月、ベトナム軍がカンボジアに攻め込み、1979年1月7日にプノンペンを落とした。ベトナムが後押しする政権が作られたが、クメール・ルージュはタイとの国境の密林に逃れて抵抗を続けた。ベトナムを警戒する中国やタイ、そしてアメリカなどの西側の国々の思惑で、クメール・ルージュの側が国際連合の議席を握り続けた時期もあった。

内戦は1991年のパリ和平協定でようやく収まり、国際連合のもとで選挙が行われた。このとき日本は、初めて自衛隊を国際連合の平和維持活動に送っている。ポル・ポトは1998年に、裁かれることなく死んだ。

2006年、国際連合の協力でカンボジアに特別法廷が開かれた。トゥールスレンの所長だったドッチや、指導部の生き残りが裁かれ、終身刑を言い渡された。一部の被告には、チャム人とベトナム系の人々に対するジェノサイドの罪も認められた。多数派のクメール人どうしの殺害をジェノサイドと呼べるかどうかには、法的な議論がある。いまのカンボジアでは、人口の多くがこの時代の後に生まれた世代になっている。トゥールスレンの建物は、虐殺の博物館として公開されている。

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