ワルシャワ条約機構
概要
西ドイツがNATOに入った直後、ソ連と東欧7か国が軍事同盟を結んだ。「友好協力相互援助条約」。実際に軍が動いたのは、加盟国の中で二度。ハンガリーとチェコスロヴァキア。1991年7月1日、プラハで解散した。
場所
52.23°N 21.01°E · ポーランド
本文
1949年にNATOの結成が成り立った後、西側は西ドイツをどう扱うかに悩んだ。ソ連と向き合うには西ドイツの兵力が要るが、ほんの数年前まで戦った相手を再び武装させることには、フランスをはじめ強い抵抗があった。1954年10月のパリの協定で、西ドイツは主権を回復し、再軍備をしてNATOに加わることが決まった。協定は1955年5月5日に発効し、西ドイツは数日後、正式にNATOの一員となった。
ソ連の反応は素早かった。5月11日から14日にかけて、ソ連と東ヨーロッパの国々の代表がポーランドの首都ワルシャワに集まり、14日、「友好、協力および相互援助条約」に署名した。加わったのは、ソ連、ポーランド、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニアの8か国である。どの加盟国が攻撃されても、ほかの国が武力を含めて助ける。加盟国の軍を一つにまとめる統合司令部が置かれ、最高司令官には第二次世界大戦の英雄であるソ連のコーネフ元帥が就いた。

ソ連の軍は、すでに戦後から東ヨーロッパに居座っていた。条約は、それを法の形に整えるものでもあった。ちょうど翌5月15日には、オーストリアの独立を回復する国家条約が結ばれ、ソ連軍はオーストリアから引き揚げることになった。それまでハンガリーとルーマニアにソ連軍を置く理由は、オーストリアにいる部隊への補給路を守ることとされていた。その理由が消えるのと入れ替わりに、新しい条約が駐留の根拠になった。翌1956年には、東ドイツの国家人民軍も統合司令部に加わった。
この同盟の軍が実際に動いたのは、西側との戦争ではなかった。1956年10月、ハンガリーで市民が蜂起し、首相に戻ったナジ・イムレは、11月1日、ワルシャワ条約からの脱退と中立を宣言した。11月4日、ソ連軍の大部隊がブダペストに攻め込み、蜂起を押し潰した(ハンガリー動乱)。ナジはのちに処刑された。

1968年、チェコスロヴァキアでは、共産党の指導者ドゥプチェクのもとで「人間の顔をした社会主義」を掲げる改革が進んだ(プラハの春)。8月20日の夜、ソ連、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの軍が国境を越え、改革を止めた。東ドイツの部隊は国境の手前に控えた。ルーマニアは加わらず、指導者チャウシェスクは侵攻を公然と非難した。ソ連のレオニード・ブレジネフは、社会主義の国の主権は、社会主義の共同体全体の利益に従う、と侵攻を正当化した。「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれる考え方である。アルバニアは、中国に近づいてソ連と対立し、1961年から会議に出なくなっていたが、この侵攻を機に正式に脱退した。
1980年、ポーランドで自主管理労働組合が生まれ(連帯の結成)、国じゅうに広がると、ワルシャワ条約軍は国境の近くで大規模な演習を行い、圧力をかけた。翌1981年12月、ポーランドの政府は自ら戒厳令を敷いて組合を抑えた。ソ連軍は入らなかった。1985年、条約はさらに20年延長された。

だが同じ年に、ソ連の指導者となったゴルバチョフは、東ヨーロッパの国々がそれぞれの道を選ぶことを認める方へ転じた。1989年、ポーランドとハンガリーで体制が変わり、11月にはベルリンの壁の崩壊が起きた。ソ連軍は動かなかった。1990年10月、東ドイツは西ドイツに吸収されて消えた。1991年2月、ハンガリーのブダペストで条約の軍事機構の解散が決まり、7月1日、チェコスロヴァキアのプラハで、条約そのものの終わりを定める議定書が署名された。その年の暮れには、ソ連も消滅した。36年の歴史だった。
ワルシャワ条約の軍が実際に攻め込んだ相手は、加盟国自身だけだった。その後、かつての加盟国は次々に向こう側へ移った。1999年にポーランド、チェコ、ハンガリーがNATOに加わり、2004年にはルーマニア、ブルガリア、スロヴァキアなどが、2009年にはアルバニアが続いた。ソ連を除くすべての元の加盟国が、いまはNATOの側にいる。この流れをロシアがどう見てきたかは、2022年のロシアのウクライナ侵攻を理解する手がかりの一つにもなっている。