キューバ危機

概要
核戦争に最も近づいた13日間。以後、米ソは直通回線を引く。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(3)
ウ・タントAD1909年1月22日–AD1974年11月25日 · 仲介に入ったジョン・F・ケネディAD1917年5月29日–AD1963年11月22日 · アメリカ側ニキータ・フルシチョフAD1894年4月15日–AD1971年9月11日 · 引いた本文
1959年、キューバ革命でカストロが政権を握った。アメリカの目と鼻の先、フロリダから150キロほどの島に、アメリカに敵対する政府ができたことになる。キューバはアメリカ系の企業を国有化し、ソ連に近づいた。1961年4月、アメリカの中央情報局が訓練した亡命キューバ人の部隊が上陸したが、3日で撃退された(ピッグス湾事件)。フィデル・カストロは、アメリカがいずれ本気で攻めてくると確信した。
ソ連の側にも事情があった。核ミサイルの数でも、それを相手に届ける手段でも、ソ連はアメリカに大きく劣っていた。アメリカはソ連と国境を接するトルコやイタリアに、ソ連の都市を狙える中距離ミサイルを置いていた。ニキータ・フルシチョフは、キューバにミサイルを置けば、キューバを守り、同時に力の差を一気に縮められると考えた。1962年の春から夏にかけて、ソ連は兵士4万人あまりと、ミサイルとその発射設備を、貨物船でひそかにキューバへ運び込んだ。

10月14日、アメリカの高高度偵察機U-2がキューバ上空を撮影し、建設中のミサイル基地を写し取った。16日の朝、写真の分析結果がジョン・F・ケネディ大統領に届けられた。ここから13日間が始まる。
ケネディは、閣僚と軍の首脳、側近を集めて少人数の会議を作り、連日話し合った。アメリカ側の選択肢は、何もしない、外交で抗議する、海上封鎖、基地への空爆、全面侵攻、とあった。軍部は空爆と侵攻を主張した。基地を残らず叩けるかどうかは保証できない、と空軍の司令官自身が認めていた。一発でも撃ち返されれば、アメリカの都市が消える。

ケネディは、この会議のやりとりの多くをひそかに録音させていた。のちに公開されたテープからは、空爆をすれば何が起きるか、ソ連がベルリンで報復したらどうするかを、出席者たちが手探りで議論していた様子が分かる。正解を知っている者は誰もいなかった。
ケネディは海上封鎖を選んだ。正式には「隔離」と呼んだ。封鎖は国際法の上では戦争行為になるためである。10月22日夜、ケネディはテレビで国民に向けてミサイルの存在を明かし、キューバへ向かう船を海上で検査すると発表した。キューバから撃たれたミサイルは、ソ連からの攻撃とみなして全面的に報復する、とも述べた。アメリカの戦略空軍は、核戦争に備える最高度の一歩手前の態勢に入った。

24日、隔離が始まった。キューバへ向かっていたソ連の船は、封鎖線の手前で止まり、あるいは引き返した。しかし、すでに島にあるミサイルの工事は続いていた。25日の国連安全保障理事会では、アメリカの国連大使が偵察写真を示してソ連の代表に迫った。国連事務総長のウ・タントは、双方に自制を呼びかけ、話し合いの時間を作ろうと仲介に入った。
26日、フルシチョフから長い書簡が届いた。アメリカがキューバに侵攻しないと約束すれば、ミサイルを撤去する用意がある、という内容だった。ところが翌27日、二通目の書簡が届き、トルコにあるアメリカのミサイルの撤去も条件に加えられた。同じ日、キューバ上空でU-2が地対空ミサイルに撃墜され、操縦士が死んだ。この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれる。

その夜、大統領の弟で司法長官のロバート・ケネディが、ソ連の駐米大使とひそかに会った。アメリカはキューバに侵攻しない。トルコのミサイルも数か月のうちに撤去する。ただし、それは取引として公にしない。28日の朝、フルシチョフはモスクワ放送で、キューバのミサイルを撤去すると発表した。
後で分かったことがある。

キューバには、アメリカが知らないうちに、戦場で使う小型の戦術核兵器が既に配備されていた。このことが明らかになったのは、冷戦が終わったあとの1990年代、当事者たちが集まった会議でのことだった。アメリカが侵攻していれば、上陸した部隊に対して使われた可能性が高い。
そして27日、カリブ海の海中では、アメリカの駆逐艦に追われたソ連の潜水艦B-59が、浮上させるための訓練用の爆雷を投げ込まれていた。モスクワと連絡が取れず、すでに戦争が始まったと考えた艦長は、核弾頭を積んだ魚雷の発射を検討した。この艦では発射に3人の士官の同意が要ったとされ、乗っていた艦隊の幹部の一人が反対して、止まっている。その名はヴァシーリー・アルヒーポフになる。この話は、後年の乗員の証言によって知られるようになったもので、細部には食い違いもある。
キューバのカストロは、自分の頭越しに米ソが取引を決めたことに激怒した。フルシチョフは、退いた指導者として国内で権威を落とし、2年後に失脚する。ケネディは翌年、ケネディ暗殺で世を去った。

この危機は、核を持つ二つの国が、互いの意図を読み違えたまま戦争の縁まで行ったことを示した。翌年、米ソはワシントンとモスクワの首脳を結ぶ直通回線を引いた。同じ年には部分的核実験禁止条約も結ばれ、大気中や水中での核実験が禁じられた。物語「冷戦」はその後も30年近く続くが、両国が正面から核の撃ち合いに近づいたのは、この13日間が最も近かったとされる。